CD 輸入盤

ネイガウス父子ボックス(20CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC824
組み枚数
:
20
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ネイガウス父子ボックス(20CD)


 ソ連ものに強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、ロシアン・ピアニズムの大立者、ゲンリヒ・ネイガウスと、その息子スタニスラフ・ネイガウスの録音を集めた20枚組ボックスが登場。
 教育者としてソ連最高の人気者だったゲンリヒ・ネイガウスは、もともとは名技と教養を兼ね備えたヴィルトゥオーゾ・ピアニストでした。しかし1933年にジフテリアの合併症で多発神経炎を発症し、9か月に及ぶ治療にも関わらず右手に麻痺が残ってからは、教育者としての活動をメインとしています。
 哲学から天文学に至る該博な知識と雄弁術を活かした指導法によって、多くのすぐれたピアニストを育てたネイガウスの教室は、モスクワ音楽院の同僚でありライバルでもあったゴリデンヴェイゼル、イグムノフという大きな存在もあって、ユニークな路線を徹底強化。開け放った教室の外には大勢の見物人が連なるほどの人気ぶりで、結果、リヒテルや多くの弟子には生涯に渡って慕われる一方で、ギレリスからは嫌われ、ヴェデルニコフからは批判されるなど、弟子たちの反応も様々でした。
 そのネイガウスの次男で、ブーニンの実父としても有名なのが、スタニスラフ・ネイガウスです。スタニスラフは、5歳の時に両親が離婚したため、母の再婚相手で、父の親友でもある文豪パステルナークのもとで育ちますが、ネイガウス家とパステルナーク家の親密な交流はパステルナークが亡くなるまで続いたので、スタニスラフには2人の父親がいたような状況でした。そのため優秀なピアニストに育ち、また、指導もうまかったことから、モスクワ音楽院の父の29番教室を引き継ぎ、海外公演もおこない、48歳の時には教授にもなるなど順調に活動。しかし、父と同じく心臓があまり良くなく、また、下肢に小さな梗塞ができいていたこともあってか、52歳で急死しています。


民族

 ゲンリヒ・ネイガウスの母、オリガの母親マリアは、裕福なポーランド人のシマノフスキ家の出身、オリガの父親ミハイルは、ユダヤ系オーストリア移民のブルーメンフェリド家の出身で、ユダヤ教徒ではありませんでした。
 また、ネイガウスの父、グスタフの父親はドイツ人でカルカーにピアノ工房を設立し、オランダ人と結婚していたため、息子のゲンリヒ・ネイガウスは、3親等で見ても、ポーランド人、ユダヤ系オーストリア人、オランダ人、ドイツ人という多民族の子孫ということになりますが、名前がドイツ語ですし、父グスタフは実際にドイツ生まれドイツ・オーストリア育ちのドイツ人として、ロシア帝国の伯爵家の教師として移民してきたので、ゲンリヒ・ネイガウスは、ドイツから来た移民の子「ドイツ人」という扱いとなり、ソ連時代の国内パスポート(≒身分証)も「ドイツ人」でした。
 ちなみにスタニスラフ・ネイガウスの母、ジナイダは、ロシア帝国軍将軍の父とイタリア人の母の間に生まれたイタリア系ロシア人です。

マルチリンガル

 ゲンリヒ・ネイガウスの育った環境はユニークでした。父グスタフがドイツ人だったことから、家庭内での教育にもドイツ語が持ち込まれ、父は、ゲンリヒに対して、カント、ゲーテ、シラー、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェの作品をドイツ語で読ませていましたが、母オリガはポーランド人だったため、ポーランド文学についても教わっています。
 また、父グスタフと母オリガはどちらもフランス語に堪能だったことから、家庭内ではフランス語の使用も多く、子供ができてからは地元のロシア語とウクライナ語も加わって、家庭内では常時、フランス語、ドイツ語、ポーランド語、ロシア語、ウクライナ語が使用されるという状況になっていました。
 その後、ゲンリヒ・ネイガウスは、海外に長く住みますが、最も長かったのがイタリアということでイタリア語にも堪能で、さらに英語にも通じていたので、7か国語に通じていたマルチリンガルということになります。

親族

 母オリガの弟は、有名なピアニスト・指揮者・作曲家のフェリクス・ミハイロヴィチ・ブルーメンフェリド[1863-1931]で、ゲンリヒ・ネイガウスから見て叔父にあたります。  フェリクスは、9歳から12歳にかけて、ネイガウスの父グスタフの音楽学校で教えを受けており、職業音楽家になってサンクトペテルブルクを拠点にするようになってからもよくエリザヴェトグラードを訪れ、ネイガウス親子の前で、ショパン、シューマン、リスト、バラキレフ、リャードフなどの作品を数多く演奏。中には、「マイスタージンガー」、「トリスタンとイゾルデ」、「ジークフリート」、「ボリス・ゴドゥノフ」、「スペードの女王」や、リムスキー=コルサコフの諸作などオペラからの抜粋曲もあり、ネイガウス少年の好奇心を大いに刺激していました。
 また、ゲンリヒ・ネイガウスの母方の祖母の兄弟の孫は、有名な作曲家のカロル・シマノフスキ[1882-1937]で、ゲンリヒ・ネイガウスから見て6歳年長の「またいとこ」にあたります。シマノフスキは、10歳の時からグスタフと共に学び、ロシア内戦の混乱で別れ別れになるまでは、海外での生活も含めてかなりの時間を共に過ごしており、とても親しい兄弟のような間柄でした。

健康問題

 ソ連にいたおかげで、アメリカ軍がヨーロッパに持ち込んでしまった「スペインかぜ(アメリカ発超強力インフルエンザ)」には罹らなくて済んだネイガウスですが、生涯には何度か健康の危機が訪れています。  22歳の時には、手にリウマチを発症、治療に数か月を要する状態で復帰が遅れ、シマノフスキの作品を集めたコンサートで弾くことができず、親友ルービンシュタインがピアノ・ソナタ第2番を見事に弾いたことがきっかけで精神状態が不安定となり、手首を切るもののパニックになって救助を求めたため助かっています。  また、45歳の時には、ジフテリアに罹患。重篤な状態に陥って、重度の多発神経炎も発症。両手足の機能麻痺に加え、喉頭の潰瘍で声も出にくくなり、理学療法のほか様々な治療がおこなわれますが、回復までに9か月を要しています。右手の2本の指には麻痺が残り、以後、30年に及ぶピアニスト、ピアノ教育者としての生活は、麻痺をカバーしながらということになりますが、ネイガウスの方法は巧みで、あまり気付かれていなかったようです。

ロシアのドイツ人

ロシア帝国のロマノフ王朝は国力増大のために、400年に渡ってドイツの農民、商人、職人、軍人などを積極的に受け入れており、特にエカチェリーナ2世(元ドイツ人)の治世では「外国人招待令」を布告してユダヤ人を除くすべての外国人を対象とした移民政策を積極的に推進、七年戦争やフランス革命戦争で疲弊していたヘッセンや南西ドイツ地域の農民や職人の大規模移住が進められます。移住先の中心となったのはヴォルガ流域で、次いで黒海周辺にも多くのドイツ人が暮らすようになり、その数は19世紀の終わりには180万人に達していました。
 その後、第1次世界大戦でドイツとオーストリアが敵国となると、公的な場所でのドイツ語の使用が禁じられ、サンクト・ペテルブルクがペトログラードとなるなどドイツ語の地名も変更、さらに約20万人のドイツ人をウクライナ北西部から追放するなど、「汎スラヴ主義者」の圧力に屈した皇帝アレクサンドル2世の施策はエスカレートし、1917年2月にはヴォルガ入植地の解体と追放まで決定。
 しかし、第1次世界大戦と同時に進行していたロシア革命によって皇帝が失脚、ロシア臨時政府が誕生すると、「全民族と宗教の同権」が布告され、危機は回避されることになります。やがてドイツ人たちの自治が認められ、ソ連誕生2年後の1924年には「ヴォルガ・ドイツ人ソヴィエト社会主義自治共和国」が成立。ドイツ本国との交流もおこなわれ、途中、農業の集団化・富農撲滅宣言による約5万人の富農(反共勢力含む)の追放はあったりしたものの、1941年にドイツとの戦争が始まるまでは比較的平和な状態が続いていました。
 1941年6月、独ソ不可侵条約を破って攻め込んできたドイツ軍のバルバロッサ作戦によるソ連軍の死者は約80万人(ドイツ軍は約18万人)で、ソ連政府は「ヴォルガ・ドイツ人ソヴィエト社会主義自治共和国」の解体を宣言、ドイツ人たちをシベリアや中央アジアに追放したほか、場合によっては敵国スパイという虚偽の名目で多くの処刑もおこなわれ、ウクライナ・ドイツ人リヒテルの父親もその犠牲となっていました。
 ネイガウスも危ないところでしたが、国中が戦闘と疎開で大変な時期だったこともあって、比較的軽い処分で済んでいました。


ネイガウス、逮捕・投獄・追放

 1941年、11月4日、ゲンリヒ・ネイガウス、ソ連政府によるモスクワからの疎開命令に従わず、モスクワに留まったことで、ドイツ軍の到着を待っているという嫌疑をかけられて逮捕。モスクワのルビャンカ刑務所に投獄されます。
 疎開命令に従わなかった実際の理由は、ネイガウスの妻ミリツァの78歳の母親が病気で長旅に耐えられない状態だったため、妻ミリツァが疎開を拒否したことから、ネイガウスも動くことができなかったというものでした。
 逮捕後のNKVD(≒秘密警察)の尋問では、モスクワ残留によるスパイ容疑云々はもともとどうでも良かったのか早々に切り上げられ、もうひとつの重要な容疑である「反政府的言動」の追求が主眼となっていきます。この「反政府的言動」については、演説やお喋りが大好きなネイガウスが、日頃から会合や酒席などで冗談も交えながら政府の文化政策や戦争の作戦などを批判してきたことから、記事や告発などの証拠も数多く集められており、執拗に署名を求めてくるNKVD担当官の攻撃をかわすのは大変だったようです。つらさに負けて、うかつな項目に安易に署名してしまうと銃殺刑が待っているということはネイガウスも十分に承知していたので、一時の混乱による誤った発言だったと証言することでなんとか死刑は免れています。  ネイガウスはルビャンカ刑務所で8.5か月を過ごしていますが、投獄後約6か月間は面会も許されず、最初の面会者はマリア・ユージナで、以後、ザーク、リヒテルらが訪れ、プーシキン全集などの差し入れも認められました。しかしNKVDによる拷問のような過酷な尋問と劣悪な収監環境はネイガウスの健康を蝕み、痩せこけて複数の歯が抜け落ちてしまうという状態にまで陥っています。


 1942年7月4日、ネイガウス、「反政府的言動」の罪により、5年間、ソ連国内に340か所あった「制限地域」のひとつに住むことを命じられます。ネイガウスは、モスクワから約1,500キロ離れたスヴェルドロフスク州のクラスノトゥリインスクで森林伐採をして5年間過ごすことを選択。スヴェルドロフスク州には、ネイガウスの長男アドリアンが入所していた結核療養所も疎開していました。
 7月19日、ネイガウス、ルビャンカ刑務所から釈放。髪は伸び放題でボサボサ、服もボロボロで著しく衰弱した状態でした。
 ネイガウスの刑を軽減してもらうため、キエフとスヴェルドロフスクの音楽関係者たちが行動をおこします。ネイガウスの送致先であるスヴェルドロフスク州には、当時、「キエフ音楽院」の教師や学生が疎開して、現地のスヴェルドロフスク音楽院(のちのウラル音楽院)などで活動しており、キエフ音楽院の院長でピアノ科教授でもあるアブラム・ルフェル[1905-1948]が、ネイガウスに音楽院で働いてもらいたいと当局に請願。
 さらに1934年にネイガウスがスヴェルドロフスク音楽院の創設準備に当たった際、自分の弟子だったベルタ・マランツ[1907-1998]と、セミョン・ベンディツキー[1908-1993]を、スヴェルドロフスク音楽院の教師として送り出しており、ほどなく結婚していたその2人の協力も得ることができました(下の画像は1934年にスヴェルドロフスク音楽院が開校した時のマランツとベンディツキー、ネイガウスの姿です)。


 こうしてネイガウスは、スヴェルドロフスクに関わる人々のおかげで、疎開中のキエフ音楽院の教授として働き、ウラル、シベリア地域でコンサート・ツアーをおこなうことも許可されています。
 ちなみにスヴェルドロフスクには、オイストラフやストリヤルスキー、ヤンポリスキー、シェバリーン、カバレフスキー、グリエール、グリンベルクなど有名な音楽家も疎開してきて教育活動に従事したほか、ギレリスが疎開地をめぐるコンサート・ツアーの一環として訪れたりもしており、ネイガウスと4手演奏をしたこともあったようです。
 1944年には、ネイガウスの減刑とモスクワへの居住権の復活を請願する手紙を、文化人グループが、最高会議幹部会の議長であるミハイル・カリーニン宛に送ります。メンバーは、俳優のイワン・モスクヴィン[1874-1946]、ワシリー・カチャロフ[1875-1948]、作家のセルゲイ・ミハルコフ[1913-2009]、アレクセイ・トルストイ[1883-1945]、音楽家のコンスタンチン・イグムノフ[1873-1948]、ドミトリー・ショスタコーヴィチ[1906-1975]。
 加えて、別の請願書が、モスクワ音楽院院長で作曲家のヴィサリオン・シェバリーン[1902-1963]によって送られています。
 1944年10月、文化人グループのカリーニン議長宛の請願などにより、ネイガウスのモスクワ追放5年の刑は2年に減刑され、さらにモスクワへの居住権も回復。
 同じ10月、ギレリスが敬愛した恩師ベルタ・レイングバルド[1897-1944]が、疎開の際にウクライナのオデッサの住居がNKVD(≒秘密警察)幹部に奪われてしまったため、新たな物件を探しますが、住宅管理局との交渉がなかなか進まず、1か月半が経過した段階で、住宅管理局の4階から身を投げて自殺しています。46歳でした。
 ちなみにギレリスは、後年、自分の師はレイングバルドで、ネイガウスでは無いと明言してネイガウスを攻撃。これは全ソ連コンクール優勝後、オデッサ音楽院を卒業してモスクワ音楽院に入学した折に、ネイガウスの授業で、レイングバルドの教え方のことをからかわれたことに端を発していたようで、ネイガウスの減刑や刑期短縮、モスクワ居住権の請願などについてもギレリスは関わっていません。それどころかギレリスは、ネイガウスがモスクワ追放となった1942年に共産党への入党を認められていたので、「人民の敵」のための請願や嘆願などはとても許されることではなかったと見るのが妥当と思われます。ちなみにソ連の共産党員数は、多い時で2千万人近いという大きな規模で、職業上でも生活上でも優遇されることから、多くの国民が入党を希望して審査を受けており、オーケストラ楽員や歌劇場の歌手たちなど多数の音楽家も入党していました。中でもロシア帝国時代の民族主義が、ソ連でも再燃するのではないかと不安視していたユダヤ系には特に人気があり、ギレリスやオイストラフ、コーガン、ザーク、コンドラシン、ハイキン、パゾフスキー、シャフランなど有名どころも多数入党。一方で、地主(貴族)や富農の子孫(ムラヴィンスキー等)、宗教関係者(ゴロワノフ、ユージナ等)、「人民の敵」の親族(グリンベルク、リヒテル等)、は入党が認められず、さらに国内パスポート(≒身分証)の民族欄が「ドイツ人」となっているドイツ移民の子孫(ネイガウス、ガウク、リヒテル等)、も入党が許されていませんでした。


受賞

 1937年、「労働赤旗勲章」を授与。これは、1922年以来モスクワ音楽院の教授として働き、1935年からはモスクワ音楽院の院長職も兼務していたネイガウスの実績が、ショパン国際ピアノコンクールで、自身の育てた学生たちが上位の成績を収めたことを機にソ連政府より認められたというものでした。
 1940年、「芸術博士」の称号を授与。ネイガウスの活動がソ連政府より認められたというものでした。
 1953年、スターリン賞1等賞(賞金10万ルーブル)の候補となるものの受賞できず。スターリンが死んで間もなく、スターリン賞受賞者の選考対象にネイガウスを選ぶかどうかという議論が沸き起こり、ピアノ科教授でライバルのゴリデンヴェイゼルは反対、ショスタコーヴィチ、フレンニコフらは賛成し、音楽関係者の間ではネイガウスを推すことに多数決で決定、文化省も承認するものの、最終的に共産党中央委員会がスターリン賞そのものを廃止したことで却下されてしまいます。これは1941年の逮捕され、1942年に5年間のモスクワ追放の刑(その後2年間に減刑)に処されたことが、政治的に問題無いとされていたことの証明でもあります(正式に「名誉回復」するのは、ゴルバチョフ政権下の1989年、ネイガウスの死後四半世紀が経過してからのことでした)。
 1956年、RSFSR「人民芸術家」の称号を授与。長年の国家への貢献が認められたものです。
 1966年、スタニスラフ・ネイガウスが、ソ連政府よりRSFSR「名誉記章勲章」を授与。演奏活動と、1957年からのモスクワ音楽院での教育活動が認められたものです。
 1978年、スタニスラフ・ネイガウスが、ソ連政府よりRSFSR「人民芸術家」の称号を授与。世界的な演奏活動のほか、1975年にはモスクワ音楽院教授に就任していた教育活動が評価。


ロシア帝国 → ソ連

 1888年、多民族系譜の音楽家の両親のもとロシア帝国に生まれたネイガウスは、14歳から26歳までの12年間は、ポーランド、ドイツ、イタリア、オーストリアに長期滞在し、さらにヨーロッパ各地を公演でまわるなど諸外国での経験が豊富なロシア帝国の国際人でした。
 第1次大戦が勃発するとロシアに戻り、ロシア帝国軍の兵役免除目的も兼ねて学位と資格を取得。1916年に最初の固定給職場となったのはロシア帝国音楽協会のチフリス(トビリシ)支部で、グルジアのチフリスで音楽院開設準備を兼ねた教育活動と公演活動をおこなうというものでした。グルジアは中央から離れていただけに、内戦の影響はしばらくはありませんでしたが、1918年5月にグルジアが独立を宣言し、「グルジア民主共和国」が成立すると、ドイツ軍、オスマン帝国軍、イギリス軍が押し寄せて混乱状態となり、ネイガウスも故郷のエリザヴェトグラードに戻っています。
 しかし、エリザヴェトグラードにも内戦の戦火が及び始め、ネイガウス家とシマノフスキ家は一か所に集まり、夜間はシマノフスキとネイガウスが略奪に備えて銃を持って警戒にあたるという事態になっていました。
 1919年に入ると赤軍のおかげでいったん戦火が収まったため、ネイガウスと姉ナタリア、シマノフスキ、ブルーメンフェリドの4人が、エリザヴェトグラードに新たに設置されたソヴィエトの「教育人民委員会」の音楽関係者として働くようになり、エリザヴェトグラードが夏に白軍に占領されるまで働きます。
 以後、1964年に亡くなるまでの45年間、ネイガウスはソ連の人間として過ごしていますが、土台となる思考や技能はロシア帝国時代に、ロシア帝国や諸外国で培われたため、社会主義や共産主義の考え方にはあまり馴染めなかったようです。
 文化大臣の要請でモスクワ音楽院の教授という要職に就いてからも、政府批判めいたことを口に出してしまうことが多かったため、それが逮捕・追放にも繋がってもいました。
 しかし、それ以降は、与えられた自由を満喫するかのように、1947年には妻と娘も住む自宅に、事実上の妻としてヴィオラ奏者のシルヴィア・アイヒンゲルを住まわせ、パステルナークや元妻ジナイダとも、両方の家を行ったり来たりで親しく交流するなど、博愛ぶりを発揮。
 授業のほうも、得意のニーチェの言葉の引用や、文学、美術、天文学まで駆使する独特のイメージ喚起法によって、絶大な人気を博すようになり、行列のできる29番教室の教授として名声を確立。
 文化や教養、個人の経験などを重視したその手法は、社会主義リアリズムや、現代的な客観的姿勢からはかけ離れたもので、弟子のヴェデルニコフから「芸術家主義」などと揶揄され、ギレリスからも批判されています。
 一方でリヒテルとの絆はいっそう深まり、また、傾向はそれぞれ異なるとはいえ、同じく自由なスタイルを追求したマリア・ユージナやソフロニツキーといった「自由人」が好きな聴衆にはコンサートでも人気がありました。
 ソ連に生きながら社会主義に屈せず、音楽表現にはほかの文化の素養も重要になると教え続けたネイガウスは、人生もけた違いの博愛主義でした。


ネイガウスと妻たちのカオス

 十代の頃のネイガウスは、地主の娘で幼馴染のミリツァ[1890-1962]と仲が良く、一時は結婚も約束した恋人同士でしたが、ネイガウスの海外滞在が長期化し、イタリア滞在中の21歳の時には、13歳年長で2人の子を持つ未亡人と恋愛関係になってしまったり、戦争が始まってゴタゴタしたりで、その関係は曖昧なものとなっていました。
 やがて1917年、ペトログラードからエリザヴェトグラードに避難してきたジナイダ・ニコラエヴナ・エレメーエワ[1897-1966]が、ネイガウスの演奏に感激して積極的にアプローチしてきたことで状況が変わり、内戦終了後、ネイガウスはキエフでジナイダと結婚。1922年にはネイガウスらはモスクワに転居し、1925年にアドリアン、1927年にスタニスラフを授かっています。
 ちょうどその頃、ネイガウスはかつての恋人ミリツァとモスクワで偶然に再会、もともと気の合った二人だけに交際が復活し、1929年1月には娘まで生まれてしまっています。この交際は、ほどなく妻ジナイダの親友、イリーナ・アスムス(哲学者ヴァレンチン・アスムスの妻)の情報で明らかとなり、ジナイダは激高。ネイガウスが謝罪して、なんとか事態は収まりますが、この件が、ジナイダがネイガウスの親友パステルナークのもとに走るきっかけになったのは間違いなさそうです。
 そのパステルナークとジナイダの浮気が発覚した時も、ネイガウスは許していましたが、どうしてもジナイダと結婚したかったパステルナークはネイガウスの留守中にネイガウスの家にあったヨウ素を飲んで自殺を図り、それがきっかけでネイガウスはジナイダと二人の子供を諦めて離婚、ジナイダはパステルナークと再婚し、ネイガウスはミリツァと再婚という流れとなります。
 しかし、1945年、ジナイダの長男アドリアンが骨結核で足を切断し苦しみぬいた挙句に20歳で死去するとジナイダは心を閉ざすようになり、パステルナークは翌年にはイヴィンスカヤと不倫、1948年には愛人として家に住まわせるようになります。1960年にはパステルナークは死去しますが、印税は愛人のものとなり、収入を絶たれたジナイダは苦労しながらも本を書き、1966年に死去。
 一方、ネイガウスの方は妻ミリツァと娘ミリツァと共に暮らしてはいたものの関係はすでに友人状態で、1947年にはそこにネイガウスより18歳若いヴィオラ奏者シルヴィア・フェドロヴナ・アイヒンゲル[1906-1987]が事実上の妻として一緒に住むこととなり、15年後の1962年、ミリツァが亡くなった後に籍を入れています。2年後の1964年にはネイガウスも死去。


スタニスラフ・ネイガウス、ショパン・コンクール出場断念

  1949年9月開催の第4回ショパン・コンクールに際し、スタニスラフ・ネイガウスは、ベラ・ダヴィドヴィチ、ユーリー・ムラフリョフ、エフゲニー・マリーニン、ヴィクトル・メルジャーノフらと共にソ連代表に選ばれていたものの、直前になって文化省が出国を許可しなかったため出場を断念。


 原因は、ソ連文化省が力を入れていたプロパガンダ戦争映画でした。ショパン・コンクール開始と同じ9月中旬に公開される映画「コンスタンチン・ザスロノフ」の中に、ナチス・ドイツの親衛隊大佐という悪者がおり、その名前がネイガウス(ノイハウスのロシア語発音)だったので、同じ名前の人物を国際コンクールに出場させるのは不適切という、スターリン存命の時代ならではの過剰な忖度です。
 映画制作のきっかけになったのが、1947年からベラルーシで繰り返し上演され、戦後最初のベラルーシ演劇の傑作として制作者がスターリン賞まで授与されていた作品で、そのリメイクともいえる映画では、ドイツ軍の軍用列車を破壊するレジスタンスものという筋書きの設定にも大きな変更が無かったため、文化省としては大事をとったということでしょうか。実際、映画の方の関係者も翌年度のスターリン賞を7名が受賞していました(親衛隊のネイガウス大佐役を演じたヴラジーミル・ソロビョフも受賞)。
 この件について、実父ネイガウスが、「私の子でなければ」と嘆いたと言われていますが、それは「逮捕・追放」の話ではなく、「苗字」のことだったのかもしれません。とはいえ、継父パステルナークの姓を使用しても、1947年にすでにソ連共産党中央委員会の広報紙「文化と生活」で告発されたりしていたので、とても無問題とは言えない状況でした。


【年表】
1847年

●ゲンリヒ・ネイガウスの父、グスタフ・ノイハウス[1847-1937]、ドイツ(プロイセン王国)北西部の古都カルカーに誕生。父親はカルカーにピアノ工房を設立したドイツ人、母はオランダ人で、共にプロテスタントでした。
 グスタフは、ケルン音楽院でエルンスト・ルドルフ[1840-1916]と院長のフェルディナント・ヒラー[1811-1885]に師事したのち、ヒラーの助言に従いベルリンでも勉強。その後、ウィーンに滞在して、ベーゼンドルファーの工場でピアノ製造について学んでいたところ、1870年にヒラーから、ロシア帝国の上流階級にピアノとドイツ語を教える教師としての仕事を紹介され、ウクライナ地方のポルタヴァ州にある美しい地所「マヌイロフカ」のシクマトヴァ伯爵夫人の邸宅に外国人教師として働きに行きます。
 当時のプロイセン王国は、1795年の「ポーランド分割」によって東方に領土を拡大しており、その範囲はウクライナ近くにまで到達していました。
 また、ロシア帝国では、18世紀以来、外国人教師が多く働いていて、1757年には資格試験制度まで導入して選別しなければならないほどの過熱ぶりで、特に身元の確かな人物は、上流階級の家庭での教師として人気がありました。
 グスタフも当初は上流階級の家庭での教師でしたが、やがて、範囲を拡大し、エリザヴェトグラードに居を構えて、ピアニスト、ピアノ教師、合唱指揮者として自立する道を選びます。もっとも、シクマトヴァ伯爵夫人とは良好な関係が継続し、グスタフが音楽学校で財を成してからは、毎年のように夏休みに家族でマヌイロフカを訪れて滞在、交流は第1次世界大戦の開戦直前まで続いています。
 エリザヴェトグラードはウクライナ地方でしたが、ロシア帝国はウクライナ語の使用を制限していたため、グスタフは名前にロシア式の父称も入れて、「グスタフ・ヴィルヘルモヴィチ・ネイガウス」と改名。
 グスタフは、同地でユダヤ系オーストリア人移民の子孫であるミハイル・フランツェヴィチ・ブルーメンフェリド[1823-1883]と知り合います。ウクライナのキエフに生まれたミハイルは、フランス語と数学を教えて生計を立て、ウクライナ在住ポーランド人の大地主の一族の娘であるマリア・シギスムンドヴナ・シマノフスカヤと結婚。エリザヴェトグラードに移ってからは、同地の学校でフランス語と歴史の教師として働いていました。
 グスタフはブルーメンフェリド家の子供たちにピアノを教えることになり、14歳のオリガ、9歳のフェリクスのほか、ジャンヌ、マリア、スタニスラフ、シギスムンド、ヨゼフの計7人を指導。その後、オリガはピアノ教師となり、フェリクスはピアニスト、指揮者・作曲家に成長。
 グスタフは1874年にオリガと結婚し、2人体制の個人のピアノ教師として長く働きますが、1898年、サンクトペテルブルク音楽院で教えていたフェリクス・ブルーメンフェリドの尽力で同音楽院院長で作曲家のグラズノフの助けも借り、ロシア帝国内務省に承認され、エリザヴェトグラードに音楽学校を開くことに成功しています。
 午前9時から午後8時まで教えていたこの学校はすぐに人気校となり、グスタフとオリガは懸命に働いて財を成し、子供のナタリアとゲンリヒを何度も海外に留学させたり長期滞在させたりすることが可能になりました。
 ちなみに、グスタフの生地、カルカーは、現代では、稼働できなかった高速増殖炉原子力発電所跡地を活用した斬新な遊園地で有名です。



1848年

◆1848年革命、各地で勃発。ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、ハンガリー、ボヘミア、デンマーク、ウクライナ、ポーランド、スイス、デンマークなど広範囲で自由主義的な革命運動が起こり、「ウィーン体制」の崩壊を招くことになり、人の移動も多くなります。

1849年

◆ウクライナで民族解放運動が活発化。ウクライナは18世紀初頭からポーランド王国に代わってロシア帝国による植民地化が進み、1764年には「小ロシア省」が置かれ、1781年には行政区分が設置、1783年には農民の移動を制限した「農奴制」も導入。元々の支配者であったポーランド人に加え、大量に移民していたドイツ人や、その前から大勢いたユダヤ人によって、多くのウクライナ人が使役に供されていた歴史が背景にあります。

1859年

●4月26日、ネイガウスの母、オリガ・ミハイロヴナ・ブルーメンフェリド[1859-1936]、エリザヴェトグラードにに誕生。

1861年

◆ロシア皇帝アレクサンドル2世、農奴解放令を発布し、約4,700万人の農民を地主から解放。彼らは全国各地に新たに設置された地方自治機関「ゼムストヴォ」に数千人の代議員を送り出し、やがて工業化の担い手として大きな役割を果たすことにもなりますが、当初は混乱も招き、ウクライナからコーカサス地方や極東の遠隔地に移動する人も大勢いました。

1863年

●4月17(19)日、フェリクス・ミハイロヴィチ・ブルーメンフェリド、エリザヴェトグラードに誕生。のちにピアニスト、指揮者、作曲家として名を馳せます。フェリクスは、ゲンリヒ・ネイガウスの母の弟で、母方の「叔父」にあたります。
 フェリクスの祖父は、1802年に移民してきたユダヤ系オーストリア人の建築家フランツ・ブルーメンフェルトで、ローマ・カトリックに改宗。  その息子でフェリクスの父にあたるミハイル・フランツェヴィチ・ブルーメンフェリド[1823-1883]は、キエフの生まれ。フランス語と初頭算術を教えて生計を立て、エリザヴェトグラードに移ってからは、市立学校でフランス語と歴史を教えていました。ミハイルはゲンリヒ・ネイガウスの母の父にあたり、母方の「祖父」ということになります。
 フェリクスの母、マリア・シギスムンドヴナ・シマノフスカヤはポーランド人で、音楽教師。ゲンリヒ・ネイガウスの母の母にあたり、母方「祖母」ということになります。
 また、フェリクスの姉のオリガ・ミハイロヴナ・ブルーメンフェリドは、のちにグスタフ・ヴィルヘルモヴィチ・ネイガウスと結婚して、ゲンリヒ・グスタヴォビチ・ネイガウスを産むことになります。



◆ロシア帝国政府、ウクライナ語の書物の出版・流通を禁止(文学作品除外)。

1870年

●グスタフ・ノイハウス、ケルン音楽院を卒業後、ウィーンに滞在して、ベーゼンドルファーの工場でピアノ製造について学んでいたところ、恩師ヒラーから、ロシア帝国の上流階級にピアノとドイツ語を教える教師としての仕事を紹介され、ウクライナ地方のポルタヴァ州にある美しい地所「マヌイロフカ」のシクマトヴァ伯爵夫人の邸宅に外国人教師として働きに行きます。

1873年

◆ロシア帝国で飢饉発生。
◆ロシア帝国政府、ウクライナ語の教育を禁止。ウクライナ語の書物も全面的に出版・流通を禁止。

1875年

●グスタフ・ネイガウスとオリガ・ブルーメンフェリド、結婚。1937年にオリガが亡くなるまで、62年間に及ぶ結婚生活を維持します。


1880年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1881年

◆3月13日、アレクサンドル2世、サンクトペテルブルクで暗殺。ポーランド人のイグナツィ・フリニェヴィエツキが手投げ爆弾を投じて殺害したものですが、威力が大き過ぎたのか、フリニェヴィエツキ本人も爆発の影響で数時間後に死去。
◆反ユダヤ主義の新聞が、皇帝暗殺はユダヤ人によるものと虚偽の報道をおこなったことで、ユダヤ人から盗んでも罰せられないという偽情報も蔓延。
◆4月3日、アレクサンドル2世暗殺事件の首謀者、ロシア人のアンドレイ・ジェリャーボフと、ユダヤ系ロシア人のソフィア・ペロフスカヤらが処刑。
◆4月15〜17日、エリザヴェトグラードでポグロム(ユダヤ人迫害)発生。アレクサンドル2世暗殺事件がユダヤ人によるものという煽情的に誇張された報道により、ユダヤ人の経営する商店や飲食店が破壊・略奪されたほか、傷害事件も発生。近郊の農民が参加して略奪が激化すると、ロシア帝国政府により陸軍が派遣されて鎮圧。以後、ロシア帝国南部では、翌年まで反ユダヤ主義的な略奪事件が続発。ロシア帝国全土では、1884年までポグロムが散発的に継続し、事件の数は200を超え、中には死者が出るケースもありました。

1882年

●10月6日、カロル・シマノフスキ[1882-1937]、ロシア帝国ウクライナ地方のティモシフカに誕生。エリザヴェトグラードのすぐ近くでした。
 シマノフスキの父は、ウクライナに長く暮らす裕福なポーランド人のスタニスワフ・コルヴィン・シマノフスキで、ゲンリヒ・ネイガウスの母親の母の兄の子、つまり母方の「従兄伯父」に当たります。そのスタニスワフが、ドイツ騎士団のタウベ男爵の子孫でラトヴィアからの移民としてウクライナに暮らしていたハンナ・タウベと結婚してもうけた子がカロル・シマノフスキで、ゲンリヒ・ネイガウスの「またいとこ」ということになります。
 ちなみにシマノフスキは少年時代、兄や妹たちと共に、エリザヴェトグラードのネイガウスの父の学校に長く通っており、6歳若いゲンリヒ少年とも親しく交流していました。


 また、約20年後の1919年には、同じくエリザヴェトグラードで、同地で学んでいた15歳のボリス・コフノと恋仲になって小説を捧げるなど、エリザヴェトグラードには何かと縁があったようです。



1883年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1884年

●姉ナタリア・グスタヴォヴナ・ネイガウス[1884-1960]、エリザヴェトグラードで誕生。

1888年

●4月12日、ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス(ドイツ語名:ハインリヒ・フェーリクス・ノイハウス)、ロシア帝国ウクライナ地方の都市エリザヴェトグラードに誕生。
 19世紀半ばのエリザヴェトグラードの人口は約7千人で、その3分の1がユダヤ人という構成比。以後、19世紀半ばの各国の革命運動のもたらした人々の大規模な移動によって急速に人口が増え、ユダヤ人の構成比は約50%にまで増え、ユダヤ教徒のために大きなシナゴーグが完成したほか、路面電車も開業しています。
 ネイガウスの母オリガ(当時オーストリア国籍)の母親マリアは裕福なポーランド人のシマノフスキ家の出身、オリガの父親ミハイルは、ローマ・カトリックに改宗したユダヤ系オーストリア移民のブルーメンフェリド家の出身。
 また、ネイガウスの父グスタフ(当時ドイツ国籍)の父親はドイツ人でカルカーにピアノ工房を設立し、オランダ人と結婚していたため、息子のゲンリヒは、3親等で見ても、ポーランド人、ユダヤ系オーストリア人、オランダ人、ドイツ人という多民族の子孫ということになりますが、名前がドイツ語ですし、父グスタフは実際にドイツ生まれドイツ・オーストリア育ちのドイツ人としてロシア帝国の上流階級の家庭教師として移民してきたので、ドイツから来た移民の子「ドイツ人」という扱いとなり、国内パスポート(≒身分証)も「ドイツ人」でした。
 家庭内での教育にもドイツ志向は持ち込まれ、父グスタフは、ゲンリヒに対して、カント、ゲーテ、シラー、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェの作品をドイツ語で読ませていましたが、母オリガからはポーランド文学についてもも教わっています。
 また、父グスタフと母オリガはどちらもフランス語に堪能だったことから、フランス語の使用も多く、子供ができてからは地元のロシア語も加わって、家庭内では常時、フランス語、ドイツ語、ポーランド語、ロシア語が使用されるという状況になっていました。
 母オリガ・ミハイロヴナ・ブルーメンフェリドは、エリザヴェトグラードの出身。グスタフと結婚して音楽学校で働いていたピアノ教師。
 母オリガの弟は、有名なピアニスト・指揮者・作曲家のフェリクス・ミハイロヴィチ・ブルーメンフェリド[1863-1931]。フェリクスは、9歳から12歳にかけて、グスタフの音楽学校で教えを受けており、職業音楽家になってサンクトペテルブルクを拠点にするようになってからもよくエリザヴェトグラードを訪れ、ネイガウス親子の前で、ショパン、シューマン、リスト、バラキレフ、リャードフなどの作品を数多く演奏。中には、「マイスタージンガー」、「トリスタンとイゾルデ」、「ジークフリート」、「ボリス・ゴドゥノフ」、「スペードの女王」や、リムスキー=コルサコフの諸作などオペラからの抜粋曲もあり、ネイガウス少年の好奇心を大いに刺激していました。
 また、ゲンリヒ・ネイガウスの母方の祖母の兄弟の孫(またいとこ)で、6歳年長のカロル・シマノフスキ[1882-1937]も、10歳の時からグスタフとに学んでいます。
 なお、ネイガウスの生地「エリザヴェトグラード」は、名前が何度も変わっているので以下に列記しておきます。
■1754年「エリザヴェトグラード」
同年建設の聖エリザヴェータ要塞に因んで命名。当初は要塞が運営されており、町には兵器庫もありましたが、クリミア併合後に廃止されています。
■1924年「ジノヴィエフスク」
地元出身の有力政治家グリゴリー・ジノヴィエフの名を冠して改称。
■1934年「キーロヴォ」
有力政治家セルゲイ・キーロフ暗殺に関わったとされてジノヴィエフが逮捕されたため、犠牲者キーロフの名を用いて改称。
■1939年「キロヴォグラード」
キーロヴォをソ連の都市名の一般的なスタイルに変更。以後、77年間に渡ってその名称が継続。
■2016年「クロピウヌィーツィクィイ」
同地由来のウクライナ人劇作家で俳優のマルコ・クロピウヌィーツィクィイの名をそのまま用いて改称。現在に至っています。



1889年

1890年

1891年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1892年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1893年

1894年

1895年

◆エリザヴェトグラードに大きなシナゴーグが建設。この頃には市のユダヤ人の数は50%近くにまで増えていました。

1896年

●ネイガウス(8歳)、この頃からピアノの即興演奏をおこなうようになります。
◆7月、エリザヴェトグラードにトラム(路面電車)の建設が開始。ユダヤ人資産家レフ・イズライレヴィチ・ブロツキーが、15,000ルーブルを拠出(当時のロシア帝国労働者平均月収の1,000倍以上の金額)。

1897年

●ネイガウス(9歳)、初リサイタルを開催。
●ジナイダ・ニコラエヴナ・エレメーエワ[1897-1966]、サンクトペテルブルクに誕生。父ニコライ・アレクセイヴィチ。エレメーエフ[1850-1907]はロシア帝国軍の将軍で母はイタリア人。のちにネイガウスと結婚し、その後、パステルナークと不倫してネイガウスと離婚し、パステルナークと再婚。
◆エリザヴェトグラードでトラム(路面電車)が開業。
◆ロシア帝国で飢饉発生。



1898年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1899年

●父グスタフ、エリザヴェトグラードに音楽学校を開校。サンクトペテルブルク音楽院で教えていたフェリクス・ブルーメンフェリドの尽力で、同音楽院院長で作曲家のグラズノフの助けも借り、ロシア帝国内務省に承認された結果でした。

1900年

●ネイガウス(12歳)、公開演奏会で初めて演奏。場所は生地エリザヴェトグラード。

1901年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1902年

●5〜8月、ネイガウス家、ドイツとオーストリアに向けた長期旅行。ワルシャワ、ベルリン、ケルン、カルカー、ボーフム、ドルトムントなど訪れ、ボンからはライン川を船で下ってリューデスハイムに行き、やがてバイロイトに到着。
●夏、ネイガウス家、バイロイトとミュンヘンでおこなわれたワーグナー音楽祭を鑑賞。バイロイトではカール・ムックの「パルジファル」、ハンス・リヒターの「ニーベルングの指環」、フェリックス・モットルの「さまよえるオランダ人」を鑑賞し、祝賀会にも出席。その後、ミュンヘンのプリンツレーゲンテン劇場でさらに「ローエングリン」「マイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」も観て感銘を受けます。
 一連のワーグナー鑑賞はネイガウスに大きな影響を与え、オペラ全曲を4手のピアノ作品にアレンジしてピアノ音楽の枠にとらわれない表現を追求するようにもなります。

●9月15日、ネイガウス(14歳)、11歳のヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマンと共演。

1903年

●ネイガウス、姉ナタリアと一緒に、ワルシャワの音楽研究所(現ショパン音楽アカデミー)で、アレクサンデル・ミハウォフスキ[1851-1938]に師事。ショパンの弟子で助手も務めたカール・ミクリ[1821-1897]と親交のあったミハウォフスキは、ショパンの権威として知られ、のちにソフロニツキーも教えていました。


1904年

●ネイガウス家、ベルリンに旅行。またいとこのシマノフスキ、叔父のブルーメンフェリドも同行。
●夏、ネイガウス家、1902年に続き、バイロイトとミュンヘンで開催されたワーグナー音楽祭を鑑賞。
 一連のワーグナー鑑賞はネイガウスに大きな影響を与え、オペラ全曲を4手のピアノ作品にアレンジしてピアノ音楽の枠にとらわれない表現を追求するようにもなります。

●ネイガウス(16歳)、姉のナタリア(19歳)とドイツ・ツアー実施。ドルトムント音楽祭に参加したのち、ボン、ケルンでコンサートを開催。リストの4手作品「悲愴協奏曲」など演奏。
●ネイガウス、ベルリン・フィルのコンサートに出演し、リヒャルト・シュトラウスのブルレスケとショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏。好評を博します。

1905年

◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第一革命へ発展。


●5月、ネイガウス(17歳)、ブルーメンフェリドとグラズノフの薦めで、ベルリンでレオポルト・ゴドフスキー[1870-1938]の個人指導を受けるため、オーディションに臨みます。
●9月、ネイガウス(17歳)、翌年春にかけてベルリンでレオポルト・ゴドフスキーの個人指導を受けます。
 ゴドフスキーはロシア帝国のリトアニア地方ジョスリに生まれたユダヤ系ピアニスト。3歳でピアノのレッスンを開始し、7歳で最初の作曲をおこない、9歳でリトアニアでピアニストとしてデビュー。10歳からリトアニアとプロイセンのツアーを開始し、13歳でベルリン高等音楽院に入学。同音楽院の当時のピアノ部門の責任者は、エルンスト・ルドルフ[1840-1916]でしたが、ショパンを軽視するなどゴドフスキーとは価値観が大きく異なったこともあり、ルドルフの指導を3か月ほど受けた段階で、アメリカへの長期コンサート・ツアーをおこなうグループに参加する道を選んで退学しています。ちなみにエルンスト・ルドルフは、ベルリンの前はケルンで教えており、そこでの学生には、ネイガウスの父グスタフもいました。
 2年後、ゴドフスキーはフランツ・リストに師事すべくヨーロッパに戻りますが、直前にリストが死去してしまったため、1887年にはパリに向かい、サン=サーンスと交流などしながら1890年までパリに滞在。同年中にニューヨークに渡り、翌年には結婚してアメリカの市民権を取得。アメリカ各地のコンサートで成功を収め、1895年からはシカゴで教職にも就いていましたが、1900年には渡欧して12月のベルリン公演で注目され、ベルリンを拠点とするようになります。1901年にはドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国をまわるツアーをおこなって成功し、ベルリンでピアノの個人指導も始めるなどヨーロッパでの地歩を固め、1909年にはウィーン帝国音楽アカデミーでブゾーニの後任としてマスタークラスを引き継いでいます。
 ネイガウスはこのときは、ゴドフスキーからの個人指導を十数回受けただけでしたが、ゴドフスキーはネイガウスを気に入り、後にウィーン帝国音楽アカデミーでマスタークラスを受け持つようになった際には、ネイガウスを招いています。



◆ロシア帝国で飢饉発生。

1906年

●ネイガウス、イタリアに滞在。
◆ロシア帝国で飢饉、農村部中心に人口の約22%が飢餓状態に。
●父グスタフ、記譜法に関する著作を発表。
●ネイガウス、ベルリンでリストのロ短調ソナタなどを演奏して成功。
●ネイガウス、ワルシャワでシマノフスキの「民謡の主題による変奏曲」と幻想曲などを演奏。「またいとこ」の作品の紹介ということでもあります。

1907年

●2月、ネイガウス、ロシア帝国に帰化。それまではプロイセン国籍でした。
●夏、ネイガウス、イタリアからエリザヴェトグラードに帰還。


●ネイガウス、故郷で地主の娘ミリツァらと過ごします。ミリツァとネイガウスは幼馴染で、一時は結婚も約束した恋人同士でした。
●10月、ネイガウス、再びベルリンで勉強。1年間に渡ってパウル・ユオン[1872-1940]から理論と作曲の個人指導を受けます。ユオンはモスクワ生まれのスイス人作曲家で、モスクワ音楽院でアレンスキーとタネーエフに師事、ヨーゼフ・ヨアヒム校長の招きでベルリン高等音楽学校の作曲科教授も務めていました。
◆ロシア帝国で飢饉発生。

1908年

◆ピウスツキ、ポーランドで私設軍隊を設立。のちにポーランド軍に拡大。
●1月、ネイガウス、シマノフスキと共にイタリア北西部、ジェノヴァ近くの海辺の景勝地ネルヴィに旅行し、しばらく滞在。当時のネルヴィはジェノヴァとは別の自治体で、別荘地として海外でも人気。同地にはシマノフスキの叔母がいました。


●夏、ネイガウス、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノに旅行し、ミュンヘンを経て、父グスタフの最初の職場でもあったロシア帝国マヌイロフカ、シクマトヴァ伯爵夫人の邸宅に到着。先に滞在していたネイガウスの家族と合流。
 イタリアが気に入ったネイガウスは、両親に対し、イタリアにもう1年滞在させて欲しいと懇願したところ、シクマトヴァ伯爵夫人が手を貸し、フィレンツェに住むロシア貴族の知人を紹介してくれることになります。

●秋、ネイガウス、フィレンツェに滞在開始。ブリュートナーのピアノも提供され、毎日熱心に練習して勉強。バッハの平均律やベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲、ショパンのお気に入りの作品のイメージ化を進めることになります。
◆ロシア帝国で飢饉発生。
◆12月28日、朝5時20分、南イタリア、シチリア島の海峡付近でメッシーナ大地震発生。犠牲者10万人とも言われるマグニチュード7.1の大地震で、12メートルの津波が沿岸を襲っています。


1909年

●ネイガウス、メッシーナ大地震の被害者を支援するためのリサイタルを何度かおこなったほか、通常のリサイタルも開催。バッハなどを演奏して成功。
●ネイガウス、13歳年長で2人の子を持つ未亡人と恋愛関係になりますが、やがて破局。
●夏、ネイガウス、傷心の鬱状態で、ロシア帝国マヌイロフカを経由して、エリザヴェトグラードに帰還。

1910年

●ネイガウス、ベルリン高等音楽院の試験に合格して、ピアノ部門責任者に就任したばかりのカール・ハインリヒ・バルト[1847-1922]に師事することになります。バルトはフランツ・リストの弟子の弟子ということで、技術的な訓練の厳しさで評判となっていた教師。バルト門下の同世代ピアニストにはアルトゥール・ルーービンシュタイン[1887-1982]がおり、ネイガウスとは親しく交流していました。


●冬、ネイガウス、手にリウマチを発症、治療に数か月を要する状態となります。すでにコンサート活動をおこないながら、指導を受けていたネイガウスに対して、ほかの学生と同じような過酷な要求をおこなったバルトの厳しい方針が原因かもしれません。バルトはネイガウスとは水と油でした。
●ネイガウスの姉ナタリアの娘アストリート、ケルンで誕生。

1911年

●ネイガウス、ベルリンで手の治療を続けながら、バルトのもとでの勉強を継続。
●春、ネイガウス、ゴドフスキーと再会。ゴドフスキーは翌年にウィーン帝国音楽アカデミーのマスタークラスで教えることになったため、ネイガウスが学生として登録できるよう、ベルリン高等音楽院での最終試験を早めに受けるよう助言されます。
●ネイガウス、フィレンツェに滞在。
◆ロシア帝国で飢饉発生。

1912年

●1月、ネイガウス、ベルリンで開催されたシマノフスキ作品のコンサートに聴衆として参加。ルービンシュタインがピアノ・ソナタ第2番を見事に演奏。終演後のレセプションにはネイガウスも出席しますが、途中でいたたまれなくなり、シマノフスキ宛てにフィレンツェに戻る旨を書いたメモを残してその場を後にします。
●1月、ネイガウス、自殺未遂。シマノフスキ作品のコンサートの後、ホテルで手首を切るもののパニックになって助けを求め、すぐに病院に運ばれてこと無きを得ます。このとき、ネイガウスは、ニコルスキーという変名を使ってホテルに泊まっていたので、最初から自殺が目的だったのかもしれません。
●ネイガウス、ウィーン帝国音楽アカデミーに奨学生として入学。ゴドフスキーのマスタークラスを受講し、フランツ・シュレーカーから作曲の指導も受けます。

1913年

●ネイガウス、ウィーン帝国音楽アカデミーに奨学生として在籍。ゴドフスキーのマスタークラスを受講し、フランツ・シュレーカーから作曲の指導も受けます。
◆ロシア帝国で飢饉発生。

1914年

●ネイガウス、ウィーン帝国音楽アカデミーを卒業。オーストリアの国家賞を授与されます。
●ネイガウス、マヌイロフカで両親と合流してからエリザヴェトグラードに帰還。
●ネイガウス、エリザヴェトグラードの父の学校で教育活動を開始。
◆7月28日、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国に対して動員開始。
◆8月1日、ドイツ帝国、ロシア帝国に対して宣戦布告。ロシア帝国では反ドイツ感情が勃興。ドイツ語の地名を変更したほか、多くのドイツ人が追放されます。
◆8月6日、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国に対して宣戦布告。
◆ロシア皇帝アレクサンドル2世、約20万人のドイツ人をウクライナ北西部から追放。
◆10月、ドイツの巡洋戦艦に率いられたオスマン帝国海軍が、ウクライナのオデッサとセバストポリを砲撃。
◆ロシア帝国政府、禁酒令布告(1924年まで)。

1915年

●春、ネイガウス、ペトログラード(サンクトペテルブルクから前年に改名)に行き、音楽院で自由芸術家の称号を得るためのすべての試験に合格。ショパンのピアノ協奏曲第2番の指揮はブルーメンフェリド、室内楽はブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番でヴァイオリンはコハンスキーでした。
●ネイガウス、学位と資格を授与されたことで、ロシア帝国軍の兵役を免除。
●ネイガウス、ペトログラードで、レーガーのヴァイオリン・ソナタと三重奏曲を演奏。

1916年

●夏、ネイガウス、シマノフスキと一緒に彼のティモシフカの広大な生家で過ごしたのち、エリザヴェトグラードに帰還。シマノフスキの生家は翌年にはボリシェヴィキの略奪を受けることになります。
●10月、ネイガウス、ロシア帝国音楽協会のチフリス(1936年からトビリシに改名)支部長ニコラエフの招きにより、チフリス(1936年からトビリシに改名)の音楽教育に携わるようになります。同時に、チフリス(1936年からトビリシに改名)に翌年5月に新たに設立されるチフリス(トビリシ)音楽院の準備もおこない、さらに数多くの演奏会にも出演。
●ネイガウス、グルジアでの戦火を避け、エリザヴェトグラードにいったん帰還。

1917年

◆2月、皇帝アレクサンドル2世、ヴォルガ入植地の解体とドイツ人追放を決定。
◆3月、ペトログラードでの国際婦人デーの女性デモをきっかけとして2月革命(ユリウス暦では2月)勃発。ロシア臨時政府樹立。


●5月、ネイガウス、新たに開校したチフリス(トビリシ)音楽院で教師として働き、コンサートもこなします。
◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
●夏、ジナイダ・ニコラエヴナ・エレメーエワ、ペトログラードの混乱を避け、エリザヴェトグラードの親戚宅に世話になるために転居。グスタフ・ネイガウスの音楽学校に通うようになり、ナタリア・ネイガウスに師事。
●夏、ネイガウスのリサイタルをエリザヴェトグラードで聴いたジナイダ・ニコラエヴナ・エレメーエワが、翌日、ネイガウスの家を訪れ、ネイガウスの学生にしてくれるよう嘆願。


●シマノフスキのティモシフカの生家がコサック兵に襲われ、略奪のほか、ピアノを家の近くの池に投げ込まれるなどします。シマノフスキは以後、生家に戻ることはありませんでした。
◆7月、キエフ蜂起。ポルボートク衆の叛乱。ウクライナ軍人による蜂起。ロシア帝国軍が敗北。
◆11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行して、ロシア内戦(第1期)が勃発。


◆11月、「ボリシェヴィキ」政権により、すべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が制定。教会の土地・財産も没収。
◆11月、「ウクライナ人民共和国」の建国がキエフで宣言。
◆12月、レーニンにより「チェーカー」(≒秘密警察)設立。100人足らずの小組織でスタートするものの、ロシア帝国秘密警察「オフラーナ」のメンバーも含めるなどして急拡大を遂げ、やがて28万人規模にまで成長。
◆12月、チェーカー初代議長にポーランド人のジェルジンスキーが就任。「組織化された恐怖」をモットーに、聖職者、自由主義者、資産家に関しては、街頭でも手あたり次第に射殺。
◆12月、ソヴィエト、ロシア国内の全銀行の国有化。
◆12月、赤軍がウクライナに侵攻。傀儡政権をハリコフに樹立。
◆オデッサ、戦略上の要衝の地ということで、ドイツ・オーストリア軍に占領されたのち、イギリス・フランス軍に占領。続いてデニキン将軍率いる白衛義勇軍にも占領。

1918年

●ネイガウス、チフリス(トビリシ)音楽院で教師として在籍。コンサートも実施。
◆1月、レーニンにより憲法制定議会閉鎖。選挙でボリシェヴィキが第1党になれなかったため、武力による独裁体制に移行。
◆1月、キエフ蜂起。共産主義者による蜂起。
◆2月、赤軍がウクライナ人民共和国の首都キエフを占領。
◆2月、ドイツ、オーストリアとウクライナの同盟軍が、ウクライナ解放に向けて作戦を開始。
◆3月、ドイツ、オーストリアとウクライナの同盟軍が、キエフを解放。ドイツ、オーストリアはウクライナから膨大な食糧を持ち去ります。
◆3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、「ロシア内戦(第1期)」も休戦。
◆3月、「ボリシェヴィキ」は「共産党」に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制に移行。
◆3月、レーニン、首都をペトログラードからモスクワに変更。政府機能を移転。
◆4月、スコロパドシキー将軍の政権がキエフで発足し、「ウクライナ国」が成立。
◆5月、レーニンにより食糧独裁令発令。武装した労働者食糧徴発隊組織により農民たちからの作物の収奪が開始、内戦に繋がって行きます。
◆5月、グルジアがロシア帝国からの独立を宣言。「グルジア民主共和国」が成立したため、ドイツ軍、オスマン帝国軍、イギリス軍が押し寄せます。
●グルジアの混乱を避け、ネイガウスなど多くの音楽家が国外へ脱出。
●ネイガウス、エリザヴェトグラードに帰還。両親のほか、前年にティモシフカの生家をボリシェヴィキの兵士に略奪されていたシマノフスキ家の人々もエリザヴェトグラードに避難していました。
◆6月、ソヴィエト、資本主義業態の停止命令。
◆7月、ソヴィエト、余剰農産物の国庫納入命令。農民暴動のほか、生産調整が行われるようになり逆効果に。
◆7月、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国憲法制定。
◆7月、ロシア皇帝ニコライ2世[1868-1917]処刑。一家7人と従僕ら計11人がレーニンの命令によりエカチェリンブルクで殺害。
◆8月 、シベリア出兵。ソ連軍約60万人に対し、日本軍約7万人、チェコ軍約5万人、アメリカ軍約8千人、カナダ軍約4千人、イタリア軍約2千4百人、イギリス軍約千5百人、フランス軍約千4百人


◆8月、トロツキーによる脱走兵銃殺命令。
◆8月、レーニン暗殺未遂事件発生。社会革命党の女性党員による銃撃。
◆12月、スコロパドシキー政権が倒され、「ウクライナ人民共和国」に戻されます。
◆12月、赤軍がウクライナに侵攻。
●冬、ネイガウス、シマノフスキらと交替で、家族を守るため、夜間に家の外の見回りをおこないます。ライフルや拳銃で武装していました。
◆ロシア臨時政府により、ロシア正教会の財産を政府のものにすることを決定、宗教教育も禁止となります。
◆連合国がロシアとの貿易を停止(1920年11月まで)。
◆ソヴィエト、「家族法」制定。内戦(と第1次大戦)で減少する一方の人口を補うため、結婚・離婚の手続きを簡略化。結婚と同じく離婚も増え、モスクワではこの年のうちに約7,000組の夫婦が離婚。自由恋愛的な婚姻が普及し、1920年代なかばには結婚回数は平均4回となり、やがて結婚を経ない同棲が普及するにつれ、子供の養育放棄も社会問題化。戦争やヴォルガ飢饉で親を失った子供に加えて、膨大な数の養育放棄児童が浮浪児化し、1920年代なかばにはその数は700万人を突破。少年集団による凶悪犯罪が激増し、女性浮浪者も急増するなど収拾がつかなくなったため、1936年のスターリン憲法制定までに家族法は廃止。離婚件数を減らすために手続きの手数料を高額化し、養育を放棄した者には高額な罰金刑を適用、同性愛も禁じるなど、伝統的な家庭の形を復活させる方向に転換しています。

1919年

●ネイガウスと姉ナタリア、シマノフスキ、ブルーメンフェリドの4人が、エリザヴェトグラードに設置された教育人民委員会の音楽関係者として白軍にエリザヴェトグラードが占領される直前まで働きます。
 ネイガウスとシマノフスキは、町で最高のコンサート・ホールで、スタインウェイ2台を駆使して4手ピアノ・コンサートを実施。ベートーヴェンとシューマンの交響曲に、「マイスタージンガー」、「トリスタンとイゾルデ」抜粋など演奏。ホールは満員。また、ネイガウスと姉のナタリアはソロ・コンサートもおこなっていました。

◆2月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」勃発。ポーランド・ソヴィエト戦争とも言われますが、当時はソヴィエトがまだ成立していないため、ポーランドでは「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」と呼んでいます。フランスがルノー戦車など支援。
◆2月、赤軍、キエフを占領。
◆3月、「ロシア内戦(第2期)」勃発。
◆5月、ソヴィエト、紙幣発行の制限廃止。紙幣の種類は1〜1,000ルーブル。
◆5月、首長グリゴリエフ率いるコサックにより、エリザヴェトグラードなどでユダヤ人大虐殺(ポグロム)。グリゴリエフは2か月後に、アナーキストのネストル・マフノらに殺害されています。
◆夏、白軍がエリザヴェトグラードを占領。
◆8月31日、ウクライナ軍がキエフを解放。
●秋、ネイガウス、ブルーメンフェリドら、キエフに向け、危険地域を迂回しながら前進。知人から、キエフは戦闘の影響で道や家々が血で汚れ、公園には死体が散乱しているという連絡もありましたが、エリザヴェトグラードにいるよりはマシということで、予定通り北上する道を選択。シマノフスキ家はワルシャワに向けて出発。
●ネイガウス、ジナイダ・ニコラエヴナ・エレメーエワと結婚。共に初婚。
◆11月、ウクライナ軍の一部が白軍に寝返り、ウクライナ執政内閣がポジーリャ地方に避難。
◆11月、「ロシア内戦(第2期)」、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。
◆11月、ソヴィエト紙幣の種類に、5,000ルーブルと10,000ルーブルが追加。
◆12月、ウクライナ執政内閣が、白軍、赤軍、ポーランド軍に包囲。ウクライナ軍がゲリラ戦に転校し、ソヴィエトへの抵抗を開始。

1920年

●10月、ネイガウス、キエフ音楽院の教授に就任。院長は叔父のブルーメンフェリドでした。
●ネイガウスは自身のキエフ行きに合わせ、ジナイダ・ニコラエヴナ・エレメーエワを、キエフ音楽院に招待。
●ネイガウス、このキエフ時代に、スクリャービンのソナタ全曲公演などソロ・リサイタルを数多く開催。評判となります。ツアーにはジナイダも同行していました。
◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。「ロシア内戦(第3期)」勃発。
◆ポーランド軍により、キエフ占領。
◆8月、タンボフの反乱開始。翌年6月まで。
◆10月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」、ボリシェヴィキ側の要請で停戦。ポーランドの勝利で終結し、翌年3月に講和条約締結。
◆11月、ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。「ロシア内戦(第3期)」終結。
◆内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
 為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。
◆11月、ソヴィエト、10人以上の雇用のある工場などをすべて国有化。

1921年

●ネイガウス、キエフ音楽院に教授として在職。
◆2月、ソヴィエト、農民の蜂起が100万人以上の規模で発生。
◆2月、グルジアに赤軍侵攻。
◆3月、「グルジア・ソヴィエト社会主義共和国」成立。
◆3月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」、ポーランドの勝利により終結。講和条約が結ばれ、ポーランドはリトアニア中部とウクライナ西部を併合。ほかはソヴィエト領。
◆ペトログラードのパンの配給が3分の1に減少。多くの労働者がストライキに参加。
◆3月、ソヴィエトで新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
◆春、ヴォルガ飢饉。ウクライナのヴォルガ・ドイツ人の入植地域で翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。
◆4月、タンボフの反乱激化。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
◆7月、ソヴィエト、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
◆11月、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
◆ソヴィエトで戦時共産主義の一環として物々交換が進み、通貨の価値が低下、インフレが急速に進行。

1922年

●1月24日、パステルナーク、最初の妻、エフゲニヤ・ヴラジミロヴナ・ルリエ[1898-1965]と結婚。エフゲニヤは画家で、翌年9月に長男エフゲニー[1923-2012 文芸評論家]を出産。1931年に離婚。
●ネイガウス、キエフ音楽院に教授として在職。
◆3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。


◆5月、レーニンによる「知識人追放指令」。秘密警察(GPU)の分類により、反政府的とされた知識人を追放。この場合の「知識人」は、哲学者、文学者、法律家、経済学者、組合活動家などが対象となります。
 レーニンは、音楽、演劇、映画、美術などの「芸術家」は、プロパガンダに結び付くことから積極的に活動を支援し、「科学者」「建築家」なども、人数が不足していたことから優遇していましたが、いわゆる「知識人」については、反共産主義や反政府的活動に繋がりやすいという判断から監視・弾圧をおこなっていました。
◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
◆10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
●10月、ネイガウス、ルナチャルスキー文部大臣の要請により、フェリクス・ブルーメンフェリドと共にモスクワ音楽院の教授に就任。


●ネイガウス、妻ジナイダと共に、モスクワ中心部のポヴァルスカヤ通りのアパートに移り住みます。グランド・ピアノを2台置き、学生が頻繁に訪れたほか、音楽家の多く暮らす建物だったこともあって、ホロヴィッツが遊びに来たりもしていました。ネイガウス夫妻はここで6年間暮らし、その間にアドリアンとスタニスラフが生まれています。
◆12月、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。
●モスクワ放送局、ラジオ放送開始。3月に完成した高さ150mの鉄塔から電波を送信。


1923年

◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
◆11月、ドイツでハイパーインフレ対策として臨時通貨レンテンマルク発行開始。1兆分の1という交換比率で、ハイパーインフレを乗り切ります。
◆11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。

1924年

◆1月、ソ連最高指導者、レーニン死去により、スターリンが就任。
◆2月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソ連建国後の切り下げは、これで500億分の1になった計算。

◆8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断。
◆ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減。
◆ペトログラード、レニングラードに改名。
◆1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
◆1月、ソ連憲法制定。
◆2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。

1925年

●ネイガウスの長男アドリアン・ゲンリホヴィチ・ネイガウス[1925-1945]、モスクワで誕生。愛称はアディク。

1926年

●1月、ネイガウス、チフリス(トビリシ)までモスクワから列車で4日間の旅。スクリャービン・リサイタルのほか、協奏曲コンサートでは、ベートーヴェンの第4番とリストの第2番を演奏。
●妻ジナイダ、ネイガウスがかつての恋人ミリツァと浮気をしていることを知り激高。ネイガウスが謝罪して、なんとか事態は収まります。ジナイダに情報を伝えたのは、親友のイリーナ・アースムス(哲学者ヴァレンチン・フェルディナンドヴィチ・アースムスの妻)でした。
●テオドール・グートマン[1905-1995]、ネイガウスに師事(1931年まで)。

1927年

●3月21日、ネイガウスの次男スタニスラフ・ゲンリホヴィチ・ネイガウス[1927-1980]、モスクワで誕生。

1928年

●ネイガウス、モスクワ中心部のトルブニコフスキー通りにある広いアパートに転居。以後、大勢の音楽家や詩人が出入りするたまり場のような存在となります。
●ネイガウス、ミリツァとの関係を密かに継続。
●妻ジナイダの親友、イリーナ・アスムスがネイガウス家に、パステルナークの詩集を持ちこみ朗読。ジナイダには関心の持てない内容でした。

1929年

●1月5日、ネイガウスと愛人ミリツァ・セルゲイヴナ・ソコロヴァ=ボロドキナのあいだに娘、ミリツァ・ゲンリホヴナ・リツカヤ[1929-2008]誕生。
●1月、ネイガウス、キエフ・ツアー。
●8月、妻ジナイダ、友人のイリーナ・アスムスから紹介され、ボリス・パステルナークと出会います。2人はすぐに深い仲となり、パステルナークを好きになったジナイダは、ツアー中の夫ネイガウスに手紙を書き、別れたいと通告。その手紙がコンサートの直前にネイガウスに渡されたため、演奏中、気持ちが高ぶったネイガウスは突然ピアノの蓋を閉め、泣き崩れてしまいます。ネイガウスはツアーの残りをキャンセルしてすぐにモスクワに戻り、話し合いがおこなわれ、ジナイダは彼女が夫と一緒にいることを約束します。
 しかし、約束は表向きのことだったようで、ジナイダとパステルナークとの不倫関係は継続し、1931年には離婚に至っています。


1930年

1931年

●ネイガウス、高齢になった両親をモスクワに住まわせます。


●スタニスラフ・ネイガウス、母ジナイダからピアノの指導を受けるようになります。


●テオドール・グートマン、ネイガウスのクラスで助手を務めながらピアニストとして活動。
●パステルナーク、最初の妻、エフゲニヤと離婚。
●ネイガウスの妻ジナイダ、不倫相手のパステルナークと2人で旅行。行先はグルジアのリゾート地、コブレティ。
◆12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、強制収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。


1932年

●パステルナーク、ネイガウスの元に戻ったジナイダを追いかけてネイガウスのモスクワの家を訪れ、棚にあった瓶入りのヨウ素を飲んで自殺を図ります。ジナイダは戦時中に病院で看護師として働いた経験があったため応急処置を施し、その後、病院に同行しました。
●ネイガウス、妻ジナイダと離婚。16年後の1948年には、パステルナークはオリガ・イヴィンスカヤという未亡人に夢中になってしまったので、以後、1960年に彼が肺がんで亡くなるまでの12年間はジナイダにはつらい時期となり、1966年に同じく肺がんで亡くなっています。
●ネイガウス、ミリツァ・セルゲイヴナ・ソコロヴァ=ボロドキナ[1890-1962]と結婚。ネイガウスより2歳若いミリツァはエリザヴェトグラードの地主(貴族)の娘で、ネイガウスの父の音楽学校に通っていたため、ネイガウスとは子供時代から仲が良く、やがて恋愛関係に発展、結婚も考えていましたが、戦争や革命で何年も逢わない状態が続き、やがてネイガウスは教え子のジナイダと結婚。モスクワに居を移し何年か経ったところでモスクワで再会することとなり、恋愛関係が再燃し発覚、子供までつくってしまい、妻ジナイダがパステルナークとの交際に踏み切るきっかけともなっています。
●元妻ジナイダ、パステルナークとコーカサスに新婚旅行に行くため、息子のスタニスラフを、ネイガウスの妻ミリツァに預けて出かけます。
●エミール・ギレリス[1916-1985]、師のベルタ・レイングバルド[1897-1944]とネイガウスのもとを訪問。ギレリスは当時、オデッサ音楽院の学生。レイングバルドはグリンベルクも育てた名教師で勲章も授与されていましたが、第2次大戦中の疎開の際にオデッサの自分の住居がNKVD(≒秘密警察)幹部に奪われてしまったため、新たな住居を探しますが、住宅管理局との交渉はなかなか進まず、1か月半が経過した段階で、住宅管理局の4階から身を投げて自殺しています。46歳でした。


●ヤコフ・ザーク[1913-1976]、モスクワ音楽院でネイガウスに師事(1935年まで)。
●ティホン・フレンニコフ[1913-2007]、モスクワ音楽院でネイガウスに師事(1936年まで)。

◆ソ連で国内パスポート制、導入。
◆ウクライナ国境封鎖。
◆大飢饉発生。翌1933年にかけて、ウクライナで約350万人、カザフスタンで約130万人、ヴォルガとコーカサス北部で約40万人、その他のソ連地域で約100万人が飢餓などで死亡。
1933年

●5月、ネイガウス、キエフとサラトフでリサイタル。
●5月、ネイガウス、ジフテリアに罹患。重篤な状態に陥って、重度の多発神経炎も発症。両手足の機能麻痺に加え、喉頭の潰瘍で声も出にくくなり、理学療法のほか様々な治療がおこなわれますが、回復までに9か月を要しています。右手の2本の指には麻痺が残り、以後、30年に及ぶピアニスト、ピアノ教育者としての生活は、麻痺をカバーしながらということになりますが、ネイガウスの方法は巧みで、あまり気付かれていなかったようです。

1934年

●ネイガウス、モスクワ音楽院に復帰。グートマン、ミルマン、プロホロワ、カミンスカヤ、ベロフらと。


●ネイガウス、スヴェルドロフスク音楽院の開院準備に協力。

1935年

●ネイガウス、モスクワ音楽院の院長に就任。
●ネイガウス、ワルシャワで開催された第1回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールにゲストとして招待。
●エミール・ギレリス、モスクワ音楽院大学院に入学。ネイガウスのもとで研究をおこなう一方、コンサート出演や、コンクール参加もおこない、1938年に卒業しています。
●ヴラジーミル・ベロフ[1906-1989]、ネイガウスのクラスの助教授に就任。ベロフはブルーメンフェリドの弟子で、卒業後は、ブルーメンフェリドのクラスで首席助手を務め、1931年のブルーメンフェリドの死後はクラスを引き継ぎますが、4年後の1935年には、ブルーメンフェリドの甥であるネイガウスのクラスで働くことになります。ベロフはソ連では知られていたようで、1989年の死に際しては、「ブルーメンフェリドの弟子たち」という2枚組LPが、ベロフ追悼の目的も兼ねて発売されています。

◆ソ連政府、ルーブルの為替をフランス・フラン基準とし、1ルーブル=3フランと決定。

1936年

●ネイガウスの母オリガ、モスクワで死去。

1937年

●ネイガウス、モスクワ音楽院院長。
●スヴャトスラフ・リヒテル[1915-1997]、モスクワ音楽院に入学。ネイガウスが院長だったおかげで、簡易な手続きで済みました。
●ネイガウス、第3回ショパン・コンクールに、審査副委員長として招待。
●ネイガウス、黒海沿岸の保養地ソチに療養に行き、コンサートにも出演。同地で、のちに3代目の妻となるシルヴィア・フェドロヴナ・アイヒンゲル[1906-1987]に出会います。シルヴィアはウィーン音楽院出身のヴィオラ奏者で、元スイス共産党員。1934年からソ連に移住していました。
◆ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。1936年9月に内務人民委員に就任したエジョフ長官の方針は、ソ連で政敵の排除に多用されてきた「スパイ嫌疑」を最大限利用するものでした(ある人物がスパイではないことを証明するのは不可能に近いため)。
エジョフ長官は、スパイを捕えるためには無実の人間をいくら犠牲にしても構わないというようなことを実際に発言していましたし、「自白」に追い込む「拷問」も、前長官のゲンリフ・ヤゴーダ[1891-1938]の時代をはるかに上回る残虐さで徹底、多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、数百万人とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。自分にとって都合の悪い人物を、魔法使いや魔女だとして密告する「魔女狩り」の20世紀版です。
◆エジョフ率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)のおこなった「ポーランド作戦」により、ソ連在住のポーランド人約63万6千人のうち約14万4千人が逮捕、すぐにそのうちの約11万1千人が処刑され、数十万人がポーランドに強制送還、その後、逮捕の効率が下がったため、電話帳を見てポーランド風な名前の者を逮捕・処刑するというデタラメな作戦も展開、計約31万人が殺害されています。当時、電話のある家には財産もあることが多かったので、金品を盗むことができるというNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)側の大きなメリットも被害の拡大に繋がったものと考えられます。


●ヴェデルニコフの父親、NKVDにより逮捕。当時、ハルビンなど満洲国からの帰国者の多くは日本のスパイという嫌疑がかけられ、さらにヴェデルニコフ家の場合、日本に長期滞在していたことで、嫌疑が重くなり、「人民の敵」として銃殺。母親も「人民の敵」の妻ということで逮捕され、懲役8年の刑で収容所に送致、刑期終了後もモスクワへの帰還は許されませんでした。ヴェデルニコフ本人はまだ少年だったことで、難を逃れることができました。
 両親を失ったヴェデルニコフは、ネイガウスの家で過ごすことが多くなり、同じくこの頃からネイガウスの家に何年も入り浸ることとなるリヒテルとは親しい関係となりますが、やがて芸風の大きな違いもあって距離ができるようになります。

◆ソ連政府、通貨の基準を仏フランから米ドルに変更(フランスの金本位制離脱の為)。対米ドル相場は1米ドル=5.3ルーブルと決定。
◆ロシア正教会の聖職者、85,300人が処刑。

1938年

●ネイガウスの父グスタフ、モスクワで死去。
◆8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任。スターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。前任のエジョフとその部下を1940年2月に処刑。
●12月31日、ジナイダ、パステルナークの子、レオニード・ボリソヴィチ・パステルナーク[1938-1976]を出産。

1939年

◆ロシア正教会の聖職者、900人が処刑。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。

1940年

●2月2日、演出家フセヴォロド・メイエルホリド[1874-1940]処刑。ネイガウスの友人でした。
●ネイガウス、「芸術博士」の称号を授与されます。
◆ロシア正教会の聖職者、1,100人が処刑。
●11月、リヒテル、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第6番を公開演奏会初演。ネイガウスの薦めによるものでした。実際の初演は、4月8日の作曲者による放送での演奏でした。

1941年

●スタニスラフ・ネイガウス、モスクワの中央音楽学校を卒業。
●スタニスラフ・ネイガウス、継父のボリス・パステルナークらとタタールのチストポリに疎開。チストポリはソ連作家同盟の疎開地。
●アドリアン・ネイガウスの入所していたニージニー・ファレイ結核療養所がスヴェルドロフスク州に疎開。スヴェルドロフスクには音楽家が数多く疎開。
◆6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆6月、イタリアとルーマニアがソ連へ宣戦布告。
◆7月、フィンランドとハンガリーがソ連へ宣戦布告。
◆7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
●9月10日、クリャーズマのゲッケル家で、母親と5人姉妹のうち3人がNKVDにより逮捕され強制収容所に送致。のちにヴェデルニコフと結婚するオリガと、姉のマルチェラはたまたま不在だったため難を逃れています。また、強制収容所行きとなった4人もその後無事に生還。
◆9月、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦が開始。
◆10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ユージナなどは疎開せずに活動。
●11月4日、ネイガウス、政府による疎開命令に従わず、モスクワに留まったことで、ドイツ軍の到着を待っているという嫌疑をかけられて逮捕。
 疎開命令に従わなかった実際の理由は、ネイガウスの妻ミリツァの78歳の母親が病気で長旅に耐えられない状態だったため、妻ミリツァが疎開を拒否したことでネイガウスも動けなかったというものでした。
 ネイガウスは悪名高いモスクワのルビャンカ刑務所で8.5か月を過ごしています。最初の面会者はマリア・ユージナで、投獄後約6か月後にようやく許可されたものでした。以後、ギレリス、ザーク、リヒテルなどが訪れ、プーシキン全集などの差し入れも提供されました。しかしNKVDによる拷問のような過酷な尋問と劣悪な収監環境は、ネイガウスの健康を蝕み、痩せこけて、複数の歯が抜け落ちてしまうという状態にまで陥っています。



◆「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。


◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。

1942年

◆夏、スターリングラード攻防戦開始。翌年2月までに兵士約48万人死亡、約65万人が負傷。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、民間人死者も約4万人という大きな数になっています。またドイツなど枢軸国側兵士の死傷者は約150万人とソ連側を大きく上回るものとなっており、計約267万人の死傷者が発生したことになります。
●7月4日、ネイガウス、反政府的言動の罪により、5年間、ソ連国内に340か所あった「制限地域」のひとつに住むことを命じられます。ネイガウスは、モスクワから約15,000キロ離れたスヴェルドロフスク州のクラスノトゥリインスクで森林伐採をして5年間過ごすことを選択。スヴェルドロフスク州には、ネイガウスの長男アドリアンが入所していた結核療養所も疎開していました。
●7月19日、ネイガウス、ルビャンカ刑務所から釈放。髪は伸び放題でボサボサ、服もボロボロで著しく衰弱した状態でした。
●ネイガウスの刑を軽減してもらうため、音楽家たちが行動をおこします。ネイガウスの送致先であるスヴェルドロフスク州には、当時、「キエフ音楽院」の教師や学生が疎開して、現地のスヴェルドロフスク音楽院(のちのウラル音楽院)などで活動しており、キエフ音楽院の院長でピアノ科教授でもあるアブラム・ルフェル[1905-1948]が、ネイガウスに音楽院で働いてもらいたいと当局に請願。
 さらに1934年にネイガウスがスヴェルドロフスク音楽院の創設準備に当たった際、自分の弟子だったベルタ・マランツ[1907-1998]と、セミョン・ベンディツキー[1908-1993]を、スヴェルドロフスク音楽院の教師として送り出しており、ほどなく結婚していたその2人の協力も得ることができました(下の画像は1934年にスヴェルドロフスク音楽院が開校した時のマランツとベンディツキー、ネイガウスの姿です)。


 こうしてネイガウスは、スヴェルドロフスクに関わる人々のおかげで、疎開中のキエフ音楽院の教授として働き、ウラル、シベリア地域でコンサート・ツアーをおこなうことも許可されています。
 ちなみにスヴェルドロフスクには、オイストラフやストリヤルスキー、ヤンポリスキー、シェバリーン、カバレフスキー、グリエール、グリンベルクなど有名な音楽家も疎開してきて教育活動に従事したほか、ギレリスやタマルキナが、疎開地をめぐるコンサート・ツアーの一環として訪れたりもしており、ネイガウスが、ツアーで滞在中のギレリスと4手演奏をすることもありました。


1943年

◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。


●1月18日、リヒテル、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番を初演。ネイガウスの薦めによるものでした。
●スタニスラフ・ネイガウス、疎開先のチストポリからモスクワに帰還。
●ネイガウス、スヴェルドロフスク州に疎開中のキエフ音楽院で働き、ウラル、シベリア地域でコンサート活動を継続。
◆ロシア正教会問題評議会が設立。
◆9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。

1944年

◆1月、赤軍、レニングラードを解放。
●ネイガウスの減刑とモスクワへの居住権の復活を請願する手紙を、文化人グループが、最高会議幹部会の議長であるミハイル・カリーニン宛に送ります。メンバーは、俳優のイワン・モスクヴィン[1874-1946]、ワシリー・カチャロフ[1875-1948]、作家のセルゲイ・ミハルコフ[1913-2009]、アレクセイ・トルストイ[1883-1945]、音楽家のコンスタンチン・イグムノフ[1873-1948]、ドミトリー・ショスタコーヴィチ[1906-1975]。
 加えて、別の請願書が、モスクワ音楽院院長のヴィサリオン・シェバリーン[1902-1963]によって送られています。

●10月、ネイガウス、文化人グループのカリーニン議長宛の請願などにより、モスクワ追放5年のところ2年に減刑され、さらにモスクワへの居住権も回復。

1945年

●5月、ネイガウスの長男、アドリアン、20歳で死去。7歳でパステルナーク家で育てられることとなり、9歳の時にガレージの屋根から飛び降りて重傷を負い、その後、長期間に渡って治療を受け、やがて骨結核と診断。1945年4月、足の切断を含むいくつかの手術をおこないますが、激痛の中、5月に亡くなっています。アドリアンの凄惨な死はジナイダに衝撃を与え、パステルナークとの関係の冷え込みにも繋がり、愛人オリガ・イヴィンスカヤをパステルナーク家に住まわせる一因ともなりました。
◆8月、ソ連、日本に対して宣戦布告。「日ソ中立条約」は破棄。9月5日まで戦闘を継続。
●12月、ヴェデルニコフ、全ソ連音楽家コンクールに出場するものの予選落ちという結果。
◆12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。

1946年

●スヴェルドロフスク音楽院がウラル音楽院に改名。
●スタニスラフ・ネイガウス、ガリーナ・セルゲーヴナ・ヤルジェムスカヤ[1927-?]と結婚。ガリーナはモスクワ大学で哲学を学んだ編集者でした。
●パステルナーク、オリガ・イヴィンスカヤと不倫。
◆ソ連で飢饉発生。
●12月、全ソ連音楽家コンクールのピアノ部門でリヒテルとメルジャーノフが優勝。ヴェデルニコフが予選落ちとなりますが、ネイガウスによる低評価が原因とされています。背景には当時の政情やネイガウスの立場、そして「芸術家主義」を公然と批判していたヴェデルニコフの問題もあると思われます。

1947年

◆ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣10ルーブル=新紙幣1ルーブルという10分の1の切り下げですが、給与・年金については等価交換、預金については変動型の優遇措置を実施。
●ネイガウス、シルヴィア・フェドロヴナ・アイヒンゲル[1906-1987]と同居開始。シルヴィアはウィーン音楽院出身のヴィオラ奏者で、元スイス共産党員。1934年からソ連に移住。同じ家に妻ミリツァと娘のミリツァがいました。
◆9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗します。
◆ソ連で飢饉発生。
◆12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。

1948年

◆2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することをコミンフォルム設立者のジダーノフが宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。スターリンの死と共に迫害は収まるものの、正式に統制が解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後、モスクワで52歳で急死しています。
◆4月、ソ連作曲家同盟第1回総会開催。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。

1949年

●9月、スタニスラフ・ネイガウス、第4回ショパン・コンクールに際し、ベラ・ダヴィドヴィチ、ユーリー・ムラフリョフ、エフゲニー・マリーニン、ヴィクトル・メルジャーノフらと共にソ連代表に選ばれていたものの、直前になって文化省がスタニスラフの出国を許可しなかったため出場を断念。
 原因は、ソ連文化省が力を入れていたプロパガンダ戦争映画でした。ショパン・コンクール開始と同じ9月中旬に公開される映画「コンスタンチン・ザスロノフ」の中に、ナチス・ドイツの親衛隊大佐という悪者がおり、その名前がネイガウス(ノイハウスのロシア語発音)だったので、同じ名前の人物を国際コンクールに出場させるのは不適切という、スターリン存命の時代ならではの過剰な忖度です。
 映画制作のきっかけになったのが、1947年からベラルーシで繰り返し上演され、戦後最初のベラルーシ演劇の傑作として制作者がスターリン賞まで授与されていた作品で、そのリメイクともいえる映画では、ドイツ軍の軍用列車を破壊するレジスタンスものという筋書きの設定にも大きな変更が無かったため、文化省としては大事をとったということでしょうか。実際、映画の方の関係者も翌年度のスターリン賞を7名が受賞していました(親衛隊のネイガウス大佐役を演じたヴラジーミル・ソロビョフも受賞)。
 この件について、実父ネイガウスが、「私の子でなければ」と嘆いたと言われていますが、それは「逮捕・追放」の話ではなく、「苗字」のことだったのかもしれません。とはいえ、継父パステルナークの姓を使用しても、1947年にすでにソ連共産党中央委員会の広報紙「文化と生活」で告発されたりしていたので、とても無問題とは言えない状況でした。


●10月9日、パステルナークの愛人、オリガ・イヴィンスカヤ、逮捕。4年間収容所に送られます。
◆ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーン開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、1952年に処刑。ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕・処刑。
◆イスラエルが国連に加盟。59番目の加盟国でした(日本は1956年、オーストリアは1955年、東西ドイツは1973年に加盟)。

1950年

◆3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。対米ドル相場は1米ドル=4ルーブルに決定。
●スタニスラフ・ネイガウス、モスクワ音楽院を卒業し、大学院に進学。

1951年

1952年

●スタニスラフ・ネイガウスとガリーナ・セルゲーヴナ[1927-?]の娘、マリーナ誕生。
●10月20日、パステルナーク、心臓発作。12月まで療養。

1953年

●スタニスラフ・ネイガウス、父ゲンリヒに師事。


◆3月、スターリン死去。


◆3月、ウクライナ人、フルシチョフが最高指導者に。
◆6月、ベルリンで反ソ連暴動発生。ソ連軍が鎮圧するものの、この年だけで東ドイツから西ドイツへの流入は30万人を超えます。
◆7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いてモスクワに入り、国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。
◆9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代。
●9月、パステルナークの愛人、オリガ・イヴィンスカヤ、収容所から帰還。
◆12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。
●3月、ネイガウス、スターリン賞1等賞(賞金10万ルーブル)の候補となるものの受賞できず。スターリンが死んで間もなく、スターリン賞受賞者の選考対象にネイガウスを選ぶかどうかという議論が沸き起こり、ピアノ科教授でライバルのゴリデンヴェイゼルは反対、ショスタコーヴィチ、フレンニコフらは賛成し、音楽関係者の間ではネイガウスを推すことに多数決で決定、文化省も承認するものの、最終的に共産党中央委員会がスターリン賞そのものを廃止したことで却下されてしまいます。

1954年

●スタニスラフ・ネイガウス、父ゲンリヒに師事。
●モスクワ音楽院大学院生のエフゲニー・マリーニン[1930-2001]、ネイガウスの助手となり以後3年間継続。
◆3月、ソ連国家保安委員会(KGB)発足。初代議長はセーロフ。

1955年

●スタニスラフ・ネイガウス、父ゲンリヒに師事。
●レフ・ナウモフ[1925-2005]、ネイガウスの助手として配属。
●イーゴリ・ジューコフ[1936-2018]、モスクワ音楽院でネイガウスに師事。最初はギレリスに師事していました。

1956年

●スタニスラフ・ネイガウス、父ゲンリヒに師事。
●ネイガウス、政府よりRSFSR「人民芸術家」の称号を授与。
◆2月、フルシチョフによる反スターリン演説。
◆6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧。
◆10月、ハンガリーで反ソ暴動(ハンガリー動乱)。ソ連軍が鎮圧。

1957年

●スタニスラフ・ネイガウス、父ゲンリヒに師事。
●スタニスラフ・ネイガウス、モスクワ音楽院で教職に就きます。
●エレーナ・リヒテル[1938- ]、ネイガウスに師事。大学院にも進み、ゲンリヒの死後はスタニスラフに師事。
◆6月、反党グループ事件発生。反フルシチョフの最高幹部保守派らによるフルシチョフ解任に向けての政治運動。幹部会11人のうち7名が賛成してフルシチョフ解任動議が可決するものの、フルシチョフは中央委員会でなければ解任はできないと時間を稼いで抵抗、ジューコフ国防大臣とセーロフKGB議長の協力を得て、中央委員会を開催し、反対派を抑えることに成功、反対派幹部を政権から追放していました(ジューコフも11月に解任)。
◆6月、ウラル核惨事発生。ウラル山中の原爆用プルトニウム製造工場で、高レベル放射性廃棄物が爆発、周辺住民45万人が被ばく。カラチャイ湖はのちに埋め立て。

1958年

●ネイガウス、モスクワとキエフで最後のコンサートに出演。
●パステルナーク、ノーベル文学賞を受賞。妻ジナイダとペレデルキノのダーチャに滞在中に連絡を受けますが、ほどなくソ連作家同盟とKGBの要請で辞退。31年後の1989年に最初の妻エフゲニアとの子、エフゲニーが受け取っています(ジナイダとの子、レオニードは1976年に38歳で死去。)。
◆6月、フルシチョフ、ブルガーニン首相を解任し、第1書記と首相を兼務。
◆12月、ソ連国家保安委員会(KGB)議長にシェレーピンが就任。前年にマレンコフらによるフルシチョフ解任計画をつぶして彼らを追放。フルシチョフに重用されKGB議長就任するものの、末期には寝返ってフルシチョフ解任に向けて活動していました。

1959年

1960年

●2〜3月、ネイガウス、第6回ショパン・コンクールに審査員として出席。
●5月30日、パステルナーク、肺がんのため死去。ペレデルキノ墓地に埋葬。
●8月16日、故パステルナークの愛人、オリガ・イヴィンスカヤ、密輸容疑で逮捕。連れ子のイリーナも逮捕。
●ネイガウス、「ピアノ演奏の芸術について」を出版。ソ連国内の書店では数日以内に売り切れるほどの人気。海外でも6つ以上の言語に翻訳。
●姉ナタリア・グスタヴォヴナ・ネイガウス[1884-1960]、死去。

1961年

●春、元妻ジナイダ、心臓発作。
◆ソ連政府、対米ドル相場を1米ドル=0.9ルーブルに決定。
◆4月、元軍人で前大統領アイゼンハワーのキューバ対策を手ぬるいと批判していた好戦的なケネディ大統領が、キューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するもののあえなく失敗。
◆5月、モスクワで大規模な軍事パレード。


◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。翌月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始。
◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にセミチャストヌイが就任。
●アレクセイ・ナセドキン[1942-2014]、ネイガウスのクラスに参加。
●ラドゥ・ルプー[1945- ]、ネイガウス父子らに師事(1968年まで)。
●11月、ネイガウス、ウラル音楽院を訪れて公開レッスンなどを開催。周辺地域から多くの音楽関係者が集まり大盛況となります。
●5月25日、スタニスラフ・ネイガウスとガリーナ・セルゲーヴナの息子、ゲンリヒ・スタニスラヴォヴィチ・ネイガウス、モスクワで誕生。スタニスラフ・ゲンリホヴィチ・ネイガウスの長男。モスクワ音楽院で父スタニスラフなどに師事してピアニストとなり1991年にイスラエルに移住。神学を修め、1997年にはヨルダン川西岸のアリエル市に移り住み、私立ピアノ学校「ノイハウス・ミュージック・センター」で芸術監督を務めてもいました。2017年に死去。祖父と同じハインリヒ・ノイハウス(ゲンリヒ・ネイガウス)という名前で活動。有名なブーニンの5歳年長の兄。

1962年

●ヴラジーミル・クライネフ[1944-2011]、モスクワ音楽院でネイガウスに師事(1964年まで)。下の画像、左からアレクセイ・ナセドキン、アンドレ・チャイコフスキー、レフ・ナウモフ、ニナ・デリツィエワ、ヴラジーミル・クライネフほか。


◆10月、キューバ危機。
●12月15日、幼馴染で2番目の妻、ミリツァ・セルゲイヴナ・ソコロヴァ=ボロドキナ[1890-1962]死去。
●12月、ミリツァ・セルゲイヴナ・ソコロヴァ=ボロドキナ、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。



●ネイガウス、シルヴィア・フェドロヴナ・アイヒンゲルと結婚。

1963年

●アレクセイ・リュビモフ[1944- ]、ネイガウスのクラスで学び始めます。
●エフゲニー・モギレフスキー[1945- ]、ネイガウスのクラスで学び始め、ネイガウスの死後はザークに師事。

1964年

●9月25日、スタニスラフ・ネイガウスとリュドミラ・ブーニナの子、スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニン、モスクワで誕生。母親はモスクワ中央音楽学校のピアノ講師で、子供を出産する前にスタニスラフ・ネイガウスと別れていたため、ブーニンは母が育てています。
●10月7日、アルトゥール・ルービンシュタイン[1887-1982]が入院中のネイガウスを訪問。2人は若い頃に親しく交流しており、話に興じたネイガウスの眼には涙が浮かんでいました。ルービンシュタインはこのときモスクワでリサイタルを開催、77歳ながら壮健な演奏を聴かせています。上の画像は1912年のものです。



●10月10日、ネイガウス、ヴィシュネフスキー病院で心臓発作のため死去。翌1965年の夏には、リヒテルがイタリア・ツアーにネイガウスと一緒に行く計画がありました。
●10月、ネイガウス、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。


◆10月、ソ連最高指導者、フルシチョフからブレジネフに交代。
●ナウモフがネイガウスのクラスを引き継ぎ、1967年に准教授、1972年に教授に就任しています。
●ヴラジーミル・クライネフ、モスクワ音楽院でスタニスラフ・ネイガウスに師事(1967年まで)。

1965年

●3月、スタニスラフ・ネイガウスが端役のピアニスト役で出演した映画「ガーネット・ブレスレット」がソ連で公開。アレクサンドル・クプリーン[1870-1938]の同名小説の映画化。ソ連での観客動員数は2,480万人。以後、翌年にかけて、フィンランド、スウェーデン、アメリカでも公開。


●7月10日、パステルナークの最初の妻で画家のエフゲニア・ヴラジミロヴナ・ルリエ[1898-1965]死去。ペレデルキノ墓地に埋葬。

1966年

●6月23日、ゲンリヒ・ネイガウスの元妻ジナイダ、肺がんのため死去。ペレデルキノ墓地のパステルナークの墓の隣に埋葬。
●9月25日、スタニスラフ・ネイガウスとリュドミラ・ブーニナの子、スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニン、モスクワで誕生。母親はモスクワ中央音楽学校のピアノ講師で、子供を出産する前にスタニスラフ・ネイガウスと別れていたため、ブーニンは母が育てています。
●10月、スタニスラフ・ネイガウス、政府よりRSFSR名誉記章勲章を授与。

1967年

◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にアンドロポフが就任。

1968年

◆8月、チェコ事件発生。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。


1969年

●スタニスラフ・ネイガウス、ブリジット・エンゲラー[1952-2012]を指導。スタニスラフは彼女の能力を高く買い、当初1年間のインターンシップの予定が、最終的に9年まで延長という異例の厚遇となりました。

1970年

◆ソ連政府、西側とのデタント(緊張緩和)が進む中で、西側の影響を懸念し、政府との関係に問題のある人物つについては急遽凍結することとなり、たとえばグリンベルクのオランダ公演とムラヴィンスキーの日本での指揮は「中止」となっています。一方で、オイストラフ、リヒテル、ロストロポーヴィチ、ロジェストヴェンスキーなど政府との関係の良い人物については「許可」という具合に、明暗が分かれています。

1971年

◆9月、フルシチョフ死去。
●リヒテル、ネイガウスの生誕83年記念パーティーを自宅で開催。ヤコフ・ザークら多くの弟子が集まりますが、ギレリスは不参加。

1972年

1973年

1974年

1975年

●スタニスラフ・ネイガウス、モスクワ音楽院の教授に就任。

1976年

●アンドレイ・ニコルスキー1959-1995[]、モスクワ音楽院でスタニスラフ・ネイガウスに師事。スタニスラフの死後はナウモフに師事。
●10月11日、ジナイダとパステルナークの子で科学者のレオニード・ボリソヴィチ・パステルナーク、38歳で死去。ペレデルキノ墓地に埋葬。

1977年

1978年

●スタニスラフ・ネイガウス、政府よりRSFSR人民芸術家の称号を授与。

1979年

1980年

●1月24日、スタニスラフ・ネイガウス、52歳で死去。スタニスラフは実父ネイガウスと同じく、心臓に問題を抱えていたほか、足に小さな梗塞もあったということでした。


●1月、スタニスラフ・ネイガウス、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。



1982年

◆11月、ソ連最高指導者、ブレジネフからアンドロポフに交代。

1983年

●スタニスラフ・ブーニン、ロン=ティボー国際コンクールで優勝。ブーニンはモスクワ音楽院附属中央音楽学校に在学中で、エレナ・リヒテルに師事。

1983年

◆2月、ソ連最高指導者、アンドロポフからチェルネンコに交代。

1985年

●スタニスラフ・ブーニン、ショパン・コンクールで優勝。ブーニンはモスクワ音楽院に在学中で、セルゲイ・ドレンスキーに師事。
◆3月、ソ連最高指導者、チェルネンコからゴルバチョフに交代。

1986年

●ネイガウスの3番目の妻、シルヴィア・フェドロヴナ・アイヒンゲル・ネイガウス[1906-1987]、死去。
●シルヴィア・フェドロヴナ・アイヒンゲル・ネイガウス、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。



1988年

●6月、スタニスラフ・ブーニン、母リュドミラと共に西側に亡命。

1989年

●ゲンリヒ・ネイガウス、ゴルバチョフ政権下で名誉回復。死後25年が経過していました。もっとも、フルシチョフ政権下の1956年にはネイガウスに「人民芸術家」の称号が授与されてもいたので、実質的には「人民の敵」の深刻な影響は、無かったものと思われます。

1991年

●5月20日、リヒテル、ネイガウスを追悼するコンサートをモスクワ音楽院大ホールで開催し、バッハのイギリス組曲など演奏。


収録情報


CD1
モーツァルト
1 ロンド イ短調KV.511 08:49
録音:1950年

J.S.バッハ
平均律クラヴィーア第1巻から
2 前奏曲とフーガ No.13嬰ヘ長調 BWV858 03:12
3 前奏曲とフーガ No.14 嬰ヘ短調 BWV859 04:09
4 前奏曲とフーガNo.15 ト長調 BWV860 03:15
5 前奏曲とフーガ No.16 ト短調 BVW861 04:41
6 前奏曲とフーガ No.17 変イ長調 BWV862 03:31
7 前奏曲とフーガ No.18 嬰ト短調 BWV863 04:21
録音: 1951年

ブラームス
8 奇想曲 嬰ヘ短調, Op.76 No.1 02:36
9 間奏曲 変イ長調, Op.76 No.3 01:57
10 間奏曲 変ロ長調, Op.76 No.4 02:24
11 奇想曲 嬰ハ短調, Op.76 No.5 02:57
12 間奏曲 イ長調, Op.76 No.6 03:09
13 間奏曲 イ短調, Op.76 No.7 02:51
14 奇想曲 ハ長調, Op.76 No.8 02:49
15 間奏曲 イ長調, Op.118 No.2 05:50
16 間奏曲 ロ短調, Op.119 No.1 02:52
17 間奏曲 ホ短調, Op.119 No.2 05:16
録音: 1947-1952年

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD2
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調, Op.31 No.2 「テンペスト」
1 Largo: Allegro 05:49
2 Adagio 06:30
3 Allegretto 05:55
録音: 1946年

ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調, Op.110
4 Moderato cantabile e molto espressivo 05:45
5 Allegro molto 02:00
6 Adagio, ma non troppo 09:03
録音: 1948年4月30日

ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調, Op.27 No.2「月光」
7 Adagio sostenuto 05:15
8 Allegretto 02:06
9 Presto agitato 07:20

ピアノ・ソナタ第24番 嬰ヘ長調, Op.78「テレーゼ」
10 Adagio cantabile; Allegro, ma non troppo 06:54
11 Allegro vivace 02:52
録音: 1950年

ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調, Op.109
12 Vivace, ma non troppo 03:03
13 Prestissimo 02:18
14 Andante cantabile e molto espressivo 10:59
録音:1950年10月2日

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD3
ショパン
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調, Op.11
1 Allegro maestoso 18:29
2 Romance: Larghetto 08:51
3 Rondo: Vivace 09:58
録音:1951年
ソヴィエト放送交響楽団,アレクサンドル・ガウク(指揮)

スクリャービン
ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調, Op.20
4 Allegro 06:44
5 Andante 07:52
6 Allegro moderato 09:53
録音: 1946年
ソヴィエト放送交響楽団,ニコライ・ゴロワノフ(指揮)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD4
ショパン
1 マズルカ 嬰ハ短調, Op.50 No.3 04:25
2 マズルカ ハ短調, Op.56 No.3 05:04
録音:1946年

3 マズルカ ホ短調, Op.41 No.2 01:54
4 マズルカ イ短調, Op.59 No.1 03:02
5 ノクターン ヘ短調, Op.55 No.1 04:25
6 ノクターン 変ホ長調, Op.55 No.2 04:44
録音:1949年

7 ノクターン ロ長調, Op.9 No.3 06:19
8 ノクターン ホ長調, Op.62 No.2 05:40
録音:1951年

9 マズルカ ヘ短調, Op.63 No.2 01:30
10 マズルカ 嬰ハ短調, Op.63 No.3 01:51
11 マズルカ ロ長調, Op.56 No.1 03:55
録音: 1953年

ドビュッシー
前奏曲集第 I & II巻から
12 Bruyeres (II) 02:50
13 Minstrels (I) 01:57
14 Danseuses de Delphes (I) 02:56
15 Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir (I) 03:22
16 Les collines d'Anacapri (I) 02:46
17 Des pas sur la neige (I) 03:13
18 La Serenade interrompue (I) 02:21
19 La puerta del vino (II) 02:47
録音: 1948年

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD5
ラフマニノフ
1 前奏曲 嬰ヘ短調, Op.23 No.1 03:26
2 前奏曲 ニ長調, Op.23 No.4 04:16
録音:1946年9月19日

3 練習曲「音の絵」 イ短調, Op.39 No.2 05:25
録音: 1951年7月12日 (19 september1946?)

リスト
ピアノ協奏曲第2 番 イ長調
4 Adagio sostenuto assai; Allegro agitato assai; Allegro moderato;
Allegro deciso; Marziale un poco meno allegro; Allegro animato 19:40
録音: 1946年
ソヴィエト交響楽団, ウラジーミル・デグチャレンコ(指揮)

ショパン
ピアノ協奏曲第1 番 ホ短調, Op.11
5 Allegro maestoso 19:06
6 Romance: Larghetto 09:15
7 Rondo: Vivace 09:23
録音: 1948年5月19日 (ライヴ)
ソヴィエト交響楽団,ニコライ・アノーソフ(指揮)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD6
シューマン
クライスレリアーナ, Op.16
1 Auserst bewegt 02:23
2 Sehr innig und nicht zu rasch 08:28
3 Sehr aufgeregt 04:35
4 Sehr langsam 03:05
5 Sehr lebhaft 03:01
6 Sehr langsam 03:19
7 Sehr rasch 02:10
8 Schnell und spielend 03:15
録音: 1951年

スクリャービン
2 つの詩曲, Op.32
9 No.1 嬰ヘ長調 02:58
10 No.2 ニ長調 01:23
録音: 1950年

2つの詩曲, Op.63
11 仮面 01:06
12 不思議 01:27
録音: 1946年

24の前奏曲集, Op.11から
13 No.2 イ短調 02:00
14 No.5 ニ長調 01:41
15 No.8 嬰ヘ短調 01:24
16 No.11 ロ長調 01:17
17 No.12 嬰ト短調 01:25
録音: 1948年

プロコフィエフ
束の間の幻想, Op.22
18 I Lentamente 00:58
19 II Andante 01:05
20 III Allegretto 00:54
21 IV Animato 00:47
22 V Molto giocoso 00:20
23 VI Con eleganza 00:27
24 VII Pittoresco (Arpa) 01:28
25 VIII Commodo 01:03
26 IX Allegro tranquillo 01:06
27 X Ridicolosamente 00:51
28 XI Con vivacita 00:59
29 XII Assai moderato 00:56
30 XIII Allegretto 00:45
31 XIV Feroce 00:57
32 XV Inquieto 00:43
33 XVI Dolente 01:18
34 XVII Poetico 00:50
35 XVIII Con una dolce lentezza 01:04
36 XIX Presto agitatissimo e molto accentuato 00:37
37 XX Lento irrealmente 01:28
録音: 1956年

ショスタコーヴィチ
24の前奏曲集から, Op.34
1 No.1 ハ長調 01:05
2 No.2 イ短調 00:50
3 No.3 ト長調 01:46
4 No.7 イ長調 01:01
5 No.8 嬰ヘ短調 01:01
録音:1956年
6 No.11 ロ長調 00:56
録音:1957年
7 No.13 嬰ヘ長調 01:12
8 No.14 変ホ短調 01:54
9 No.16 変ロ短調 01:00
10 No.18 ヘ短調 00:53
11 No.19 変ホ長調 01:32
録音:1956年
12 No.22ト短調 01:50
13 No.23 ヘ長調 01:08
録音: 1957年

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD7
スクリャービン
24の前奏曲集から, Op.11
1 No.5 in D major 01:44
2 No.8 in F sharp minor 01:29
3 No.9 in E major 01:34
4 No.10 in C sharp minor 01:18

ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調, Op.6
5 Allegro con fuoco 09:15
6 Adagio 03:52
7 Presto 03:19
8 Funebre 04:43

9 左手のための前奏曲とノクターン, Op.9 07:11
10 詩曲 変ニ長調, Op.41 03:54
11 詩曲「焔に向かって」, Op.72 04:13

ショパン
12 即興曲 No.3 変ト長調, Op.51 05:03
13 マズルカ 嬰ハ短調, Op.41 No.1 02:56

3つのマズルカ, Op.59
14 No.1イ短調 03:12
15 No.2 変イ長調 02:32
16 No.3 嬰ヘ短調 03:10

3つのマズルカ, Op.63
17 No.1 ロ長調 01:51
18 No.2 ヘ短調 01:31
19 No.3 嬰ハ短調 01:51

20 子守歌 変ニ長調, Op.57 04:27

21 ノクターン ロ長調, Op.62 No.1 07:04
録音:1951年11月10日 (ライヴ)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD8
ショパン
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調, Op.58
1 Allegro maestoso 12:20
2 Scherzo: molto Vivace 02:35
3 Largo 08:13
4 Finale: Presto, ma non tanto 04:49

2つのノクターン, Op.55
5 No.1 ヘ短調 04:50
6 No.2 変ホ長調 04:56

7 幻想曲 ヘ短調, Op.49 11:20

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調, Op.35
8 Grave: doppio movimento 05:13
9 Scherzo 06:19
10 Marcia funebre: Lento 07:22
11 Finale: Presto 01:32
録音:1949年3月5日 (ライヴ)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD9
ショパン
3 つのマズルカ, Op.59
1 No.1 イ短調 03:05
2 No.2 変イ長調 02:18
3 No.3 嬰ヘ短調 03:13

4 ワルツ 変イ長調, Op.42 03:32
5 マズルカ 変ホ長調, Op.6 No.4 01:06
6 マズルカ ロ長調, Op.63 No.1 01:58
7 ノクターン 嬰ヘ長調, Op.15 No.2 03:26
8 マズルカ ヘ短調, Op.68 No.4 01:56
録音:1949年3月5日 (ライヴ)

シューマン
9 幻想曲 ハ長調, Op.17 (第1楽章) 12:07

スクリャービン
10 幻想曲 ロ短調, Op.28 08:40

ショパン
11 幻想ポロネーズ 変ロ長調, Op.61 11:18

スクリャービン
12 アルバムの綴り, Op.45 No.1 01:36

ショパン
13 マズルカ 嬰ハ短調, Op.50 No.3 04:45
録音: 1958年4月23日 (ライヴ)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD10
ショパン
1 ロンド 変ホ長調, Op.16 09:35
2 ノクターン 変ロ長調, Op.32 No.1 04:38
3 ノクターン 嬰ハ短調, Op.27 No.1 05:02

3つの新しい練習曲, Op. posth.
4 No.1 ヘ短調 01:48
5 No.2 変イ長調 01:56
6 No.3 変ニ長調 02:18

7 演奏会用アレグロ イ長調, Op.46 11:12
8 幻想ポロネーズ 変イ長調, Op.61 11:23
9 即興曲第3番 変ト長調, Op.51 05:08

3つのマズルカ, Op.63
10 No.1 ロ長調 01:50
11 No.2ヘ短調 01:29
12 No.3 嬰ハ短調 02:06

13 バルカローレ 嬰ヘ長調, Op.60 08:06
14 バラード第3番 変イ長調, Op.47 07:01
15 子守歌 変ニ長調, Op.57 04:56
録音:1949年10月11日 (ライヴ)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD11
スクリャービン
ピアノ・ソナタ第3番 嬰ヘ短調, Op.23
1 Drammatico 05:00
2 Allegretto 02:21
3 Andante 03:52
4 Presto con fuoco 04:47

5 ピアノ・ソナタ第7番, Op.64

6つの前奏曲, Op.13 08:59
6 No.1 ハ長調 01:57
7 No.2 イ短調 00:34
8 No.3 ト長調 01:03
9 No.4 ホ短調 00:48
10 No.5 ニ長調 00:47
11 No.6 ロ短調 01:22

12 前奏曲 ホ短調, Op.11 No.4 01:44
13 幻想曲 ロ短調, Op.28 08:06
14 ピアノ・ソナタ第5番, Op.53 10:08

2 つの小品, Op.57
15 あこがれ 01:11
16 舞い踊る愛撫 01:14

2つの詩曲, Op.63
17 仮面 01:02
18 不思議 01:24

19 ピアノ・ソナタ第 9番, Op.68 06:37
20 ピアノ・ソナタ第10番, Op.70 09:47
21 詩曲, Op.32 No.1 02:56
22 アルバムの綴り, Op.45 No.1 01:07
録音:1953年3月18日 (ライヴ)

ゲンリヒ・ネイガウス(ピアノ)

CD12
モーツァルト
2台ピアノのためのソナタ ニ長調 K.448
1 Allegro con spirito 11:02
2 Andante 09:47
3 Molto allegro 05:44

アレンスキー
2台ピアノのための組曲第2番「シルエット」, Op.23
4 Le savant (Ученый) 02:43
5 La coquette (Кокетка) 02:28
6 Polichinelle (Паяц) 03:25
7 Le reveur (Мечтатель) 04:03
8 La danseuse (Танцовщица) 03:05
録音: 1950年
ゲンリヒ&スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

ベートーヴェン
ピアノ四重奏曲第2番 ニ長調, WoO 36
9 Allegro moderato 10:31
10 Andante con moto 10:36
11 Rondo: Allegro 04:44
録音: 1949年
Heinrich Neuhaus, piano; Dmitry Tsyganov, violin;
Vadim Barisovsky, viola; Sergei Shirinsky, cello

CD13
モーツァルト
ピアノ・ソナタ第16番 ハ長調, K 545
1 Allegro 03:47
2 Andante 05:42
3 Rondo: Allegretto 01:42
録音:1964年2月15日 (ライヴ)

ピアノ・ソナタ第8番 イ短調, K 310
4 Allegro maestoso 05:04
5 Andante cantabile, con espressione 06:09
6 Presto 03:04
録音:1965年11月2日 (ライヴ)

ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第27 番 ホ短調, Op.90
7 Con vivacita e sempre con sentimento ed espressione 05:09
8 Non troppo vivo e cantabile assai 07:19
録音:1963年10月4日 (ライヴ)

ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調, Op.111
9 Maestoso; Allegro con brio ed appassionato 08:12
10 Arietta: Adagio molto semplice e cantabile 16:35
録音:1970年10月10日 (ライヴ)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD14
シューベルト
ソナタイ長調, Op.Posth.120 ? DV.664
1 Allegro Moderato 08:19
2 Andante 06:15
3 Allegro 06:26
録音:1963年9月22日 (ライヴ)

4 即興曲 ハ短調, Op.90 No.1 12:02
録音:1978年8月2日 (ライヴ)

シューマン
「色とりどりの小品」から6つの小品, Op.99
5 No.1 イ長調 01:52
6 No.2 ホ短調 00:48
7 No.3 ホ長調 00:54
8 No.5 "Albumblatter" No.2, ロ短調 00:36
9 No.7 "Albumblatter" No.4, 変ホ短調 02:13
10 No.8 "Albumblatter" No.5, 変ホ長調 01:46
録音: 1963年 (ライヴ)

リスト
11 泉のほとりで 03:14
録音 :1963年9月22日 (ライヴ)

12 ペトラルカのソネット 第123番 07:07
13 忘れられたワルツ第1番 嬰ヘ長調 02:22
14 詩的で宗教的な調べ 12:11

ドビュッシー
前奏曲集から
15 No.15 La puerta del vino 02:52
16 No.12 Minstrels 01:54
録音: 1963年10月6日 (ライヴ)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD15
ショパン
1 幻想ポロネーズ 変イ長調, Op.61 11:22
2 ノクターン 変ニ長調, Op.27 No.2 05:10
3 ノクターン 嬰ヘ長調, Op.15 No.2 03:25

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調, Op.35「葬送行進曲」
4 Grave; Doppio Movimento 05:06
5 Scherzo 06:16
6 Marche funebre: Lento 07:24
7 Finale: Presto 01:28

8 バラード第2番 ヘ長調, Op.38 07:00
9 バラード第3番 変イ長調, Op. 47 07:00
10 バラード第4番 ヘ短調, Op.52 10:04
録音:1971年10月9日 (ライヴ)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD16
スクリャービン
幻想ソナタ第2番 嬰ト短調, Op.19
1 Andante 07:16
2 Presto 03:45

前奏曲とノクターン, Op.9
3 前奏曲 嬰ハ短調 02:32
4 ノクターン 変ニ長調 04:49

5 ソナタ第4番 嬰ヘ長調, Op.30 07:18
6 エチュード 嬰ヘ短調, Op.8 No.2 01:41
7 エチュード ロ長調, Op.8 No.4 01:24
8 エチュード ホ長調, Op.8 No.5 02:09
9 エチュード 嬰ハ短調, Op.42 No.5 02:52
10 エチュード 変ロ短調, Op.8 No.11 04:00
11 エチュード 嬰ニ短調, Op.8 No.12 02:20
12 ソナタ第9番, Op.68 08:06
13 はかなさ, Op.51 No.1 02:00
14 謎, Op.52 No.2 00:57
15 焔に向かって, Op.72 04:59
録音 :1969年6月10日 (ライヴ)

16 詩曲, Op.59 No.1 01:41
17 マズルカ 変ニ長調, Op.40 No.1 01:25
18 マズルカ 嬰ヘ長調, Op.40 No.2 01:17
19 詩曲 嬰ヘ長調, Op.32 No.1 03:09
20 詩曲 ニ長調, Op.32 No.2 01:27
21 あこがれ , Op.57 No.1 01:14
22 舞い踊る愛撫, Op.57 No.2 01:23

2つの詩曲, Op.63
23 仮面 01:07
24 不思議 01:40
録音:1975年10月10日 (ライヴ)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD17
ショパン
1 バラード第1番 ト短調, Op.23 08:36
2 バラード第2番 ヘ長調, Op.38 07:24
3 バラード第3番 変イ長調, Op.47 07:25
4 バラード第4番 ヘ短調, Op.52 10:54
5 子守歌, Op.57変ニ長調 04:33

ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調, Op.58
6 Allegro maestoso 08:48
7 Scherzo: molto vivace 02:48
8 Largo 09:05
9 Finale: Presto non troppo 05:18

10 ワルツ 変イ長調, Op.64 No.3 02:54

ドビュッシー
11 月の光 04:16

ラフマニノフ
12 前奏曲 ホ短調, Op.23 No.7 02:16
録音: 1980年1月18日 (ライヴ)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD18
ショパン
1 マズルカ No.23, Op.33 -2, ニ長調 02:08
2 マズルカ No.32, Op.50-3,嬰ハ短調 04:38
3 エチュード Op.25 No.1,変イ長調r 02:26
4 エチュード Op.25 No.12, ハ短調 02:27
録音:1949年

5 ワルツ No.8, Op.64 -3, 変イ長調 02:53
6 ワルツ No.12, Op.70-2, ヘ短調 02:53
7 ポロネーズ, Op.26 No.2,嬰ハ短調 08:21
録音: 1952年

8 華麗なる円舞曲第2番, Op.34 イ短調 05:16
録音: 1953年

9 マズルカ No.32, Op.50-3, 嬰ハ短調 04:29
10 マズルカ No.34, Op.56-2, ハ長調 01:32
11 バルカローレ, Op.60 嬰ヘ長調 08:17
12 子守歌 Op.57 変ニ長調 05:01
13 ノクターン, Op.15 No.2, 嬰ヘ長調 03:33
録音: 1959年

14 ワルツ No.7, Op.64-2, 嬰ハ短調 03:32
15 ワルツ No.8, Op.64-3,変イ長調 02:53
録音:1961年

16 即興曲No.1, Op.29,変イ長調 03:58
17 即興曲 No.2, Op.36,嬰ヘ長調 05:16
18 即興曲 No.3, Op.51,変ト長調 04:50
19 幻想即興曲, Op.66,嬰ハ短調 04:54
録音:1979年 (Stereo)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD19
スクリャービン
1 前奏曲 イ長調, Op.15 No.1 01:42
2 前奏曲 嬰ヘ短調, Op.15 No.2 00:48
3 前奏曲 ホ長調, Op.15 No.4 01:31
録音: 1952年2月5日

ラフマニノフ
4 前奏曲 ニ長調, Op.23 No.4 04:37
録音:1952年5月19日

スクリャービン
3つの小品, Op.45
5 アルバムの綴り 変ホ長調 01:18
6 おどけた詩曲 ハ長調 00:22
7 前奏曲 変ホ長調 01:32
録音: 1952年5月19日

8 前奏曲 変ト長調, Op.16 No.3 02:35
9 前奏曲 変ホ長調, Op.16 No.4 01:02
録音:1952年9月29日

ラフマニノフ
10 前奏曲 ハ長調, Op.32 No.1 01:06
11 練習曲「音の絵」 ト短調, Op.33 No.8 03:51
12 練習曲「音の絵」 変ホ長調, Op.33 No.3 01:28
録音:1952年12月1日

13 前奏曲 ト短調, Op.23 No.5 03:48
14 練習曲「音の絵」 ハ長調, Op.33 No.2 02:13
15 練習曲「音の絵」 イ短調, Op.39 No.2 06:28
録音:1955年3月21日

16 前奏曲 ヘ短調, Op.32 No.6. Allegro appassionato 01:17
17 エレジー, Op.3 No.1 05:24
18 前奏曲 ニ短調, Op.23 No.3. Tempo di Minuetto 03:45
録音: 1955年3月23日

スクリャービン
ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調, Op.20
19 Allegro 07:05
20 Andante 08:10
21 Allegro Moderato 10:30
録音:1970年5月11日 (Stereo)
ソヴィエト交響楽団, V. ドゥブロフスキー(指揮)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)

CD20
シューマン
クライスレリアーナ, Op.16
1 Auserst bewegt 02:11
2 Sehr innig und nicht zu rasch 08:21
3 Sehr aufgeregt 03:19
4 Sehr langsam 02:55
5 Sehr lebhaft 02:54
6 Sehr langsam 03:26
7 Sehr rasch 02:06
8 Schnell und spielend 03:40

ドビュッシー
前奏曲集から
9 No.6 Des pas sur la neige 03:23
10 No.9 La Serenade interrompue 02:29
11 No.7 Ce qu'a vu le vent d'Ouest 03:05
12 No.17 Bruyeres 03:00
13 No.24 Feux d'artifice 04:05
録音: 1979年10月25日 (ライヴ, stereo)

組曲「ベルガマスク」
14 前奏曲 03:27
15 メヌエット 03:49
16 月の光 04:05
17 パスピエ 04:03
録音: 1964年9月12日 (ライヴ, stereo)

版画
18 塔 04:35
19 グラナダの夕べ 04:33
20 雨の庭 03:14
録音:1965年11月2日 (ライヴ, stereo)

スタニスラフ・ネイガウス(ピアノ)




商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

ユーザーレビュー

総合評価

☆
☆
☆
☆
☆

0.0

★
★
★
★
★
 
0
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0

ピアノ作品集に関連するトピックス

器楽曲 に関連する商品情報

おすすめの商品