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- ショスタコーヴィチ(1906-1975)
- 交響曲第8番、第9番、第10番 キリル・ペトレンコ&ベルリン・フィル(2CD+BD)
基本情報
商品説明
メッセージ性の高い装丁で登場!
ショスタコーヴィチ:交響曲第8、9、10番
キリル・ペトレンコ&ベルリン・フィル
【CD】
Disc1
ショスタコーヴィチ:
1. 交響曲第8番ハ短調 Op.65(1943)
Disc2
2. 交響曲第9番変ホ長調 Op.70(1945)
3. 交響曲第10番ホ短調 Op.93(1953)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
キリル・ペトレンコ(指揮)
録音時期:2020年11月13日(1)、2020年10月31日(2)、2021年10月29日(3)
録音場所:ベルリン、フィルハーモニー
録音方式:ステレオ(デジタル/ライヴ)
【Blu-ray Disc】
Video:
・上記全曲のコンサート映像(すべてHD映像)
・インタビュー映像(キリル・ペトレンコ 22分 字幕:英、独、日)
画面:カラー、16:9、Full HD 1080/60i
音声:2.0 PCM、7.1.4 Dolby Atmos
収録時間(コンサート):152分
Region All
Audio:
・上記全曲のロスレス・スタジオ・マスター音源の音声トラック
2.0 PCM Stereo 24-bit / 96 kHz
7.1.4 Dolby Atmos 24-bit / 48 kHz
◆ ダウンロード・コード
この商品には、上記全曲のハイレゾ音源(24-bit / 96 kHz)をダウンロードするためのURLとそのパスワードが封入されています。
◆ デジタル・コンサートホール
ベルリン・フィルの映像配信サービス「デジタル・コンサートホール」を7日間無料視聴できるチケット・コードが封入されています。(輸入元情報)
輸入盤・日本語帯・解説付き
じっくり見ると驚かされる写真
アートの見方は自由なので、以下、筆者の感想を記しておきます。今回のセットで注目されるのがその装丁です。いつもながらの上質な仕上がりのブック仕様ということですが、外側にはなぜかロッカーの写真、内側には花の写真が使用されています。
しかし写真をよ〜く見ると、表紙は精密につくられたロッカーの紙オブジェが大量に並べられたもので、内側の方はリアルに制作されたスミレなどの花部分の紙オブジェを生きた植物の上に巧みに配置したハイブリッドなものであることがわかります。
トーマス・デマントの作品
これらの写真はトーマス・デマントというドイツ人造形作家の作品で、デマントはこうした手間のかかる異化的な複製手法によって、社会や自然に関する独自のアートを展示したり写真集にしたりして高い評価を受けてきた人物です。
ロッカーとデマント
ロッカーはデマントお気に入りの題材で、色違いや角度違い、他作品との組み合わせのほか、形の違うものも発表しています。
今回の作品は、2018年に制作された「ロッカー」という作品の色違いヴァージョンですが、「ロッカー」が2018年に発表された際には、「残された時間の現在への攻撃」というキャプションが付されてもいました。
奇妙なキャプションの正体
なんとも思わせぶりな言葉の正体は、デマントと親しいドイツの映画監督、アレクサンダー・クルーゲが「ニュー・ジャーマン・シネマ」の旗手だった1985年に制作した西ドイツ映画「残された時間の現在への攻撃」のタイトルです。
わざわざ友人の映画のタイトルを引用したデマントには、何かを示唆する意図があるとも考えられることから、その映画の内容についても簡単に紹介しておきます。
「残された時間の現在への攻撃」
映画は12篇のエピソードで構成された113分のアンソロジーで、クルーゲ監督が音楽も学んだ人物ということもあってか、オペラ「トスカ」と「ファルスタッフ」に由来する話を最初と最後に置き、途中、時代も人物も様々な話が映し出されています。
クルーゲ監督はそこで、社会や人々の生活の多様さを描きながら、「永続的な時間の流れの中での、人の主観的な時間感覚」という「時間の二重性」についても示しています。
「時間の二重性」
「時間」の流れは止まることが無く永続的で無限です。しかし、一個人という存在にとっての「時間」とは、その一個人という存在が無くなるまでの「残された時間」でしかありませんし、さらに「一個人という存在が主観的に捉えた時間」が「現在」ということでもあります。
このことから、その人の思いや行動とは関係なく時間が経過していくことを、クルーゲ監督は「残された時間」の「現在」への攻撃と表現しており、そしてその攻撃(=経過)は抗いようの無いものだと言いたいかのようでもあります。つまりクロノスとカイロスの話です。
ロッカー・オブジェの意味
「ロッカー」のキャプションで示されていた映画の内容が、12篇のエピソードによって時間の二重性を表現したものであるということは、数多く並んだロッカーの存在には、それに準ずる意味があるようにも思えてきます。
しかも大量に並んでいるのは、紙でつくり直され、ロッカー本来の実用的な目的をいったんクリアにし、ロッカーの役割・存在を抽象化・時系列化し、概念化したものなのでなおさらです。
ロッカーの連続的な配置が時間の永続的な流れ(クロノス)を示唆し、個別のロッカーの扉の向こう側は主観的な時間(カイロス)やドキュメントであることが示唆されていると考えると、色々なことに当てはめることもできそうです。
フラワー・オブジェの意味
一方、フラワー・オブジェについては、生体植物と組み合わされている点が注目されるところです。オブジェでは生花の寿命や生殖機能がクリアにされ、純粋に美のための美的な存在と化しているわけですが、それを生体と組み合わせているあたりが、まるでアートとそれを支える存在(人や社会)との関りを示しているようでもあり、しかもその在り方の多様さが複数の事例で示されてもいます。
デマント(とクルーゲ)のメッセ―ジ?
最近はポジション・トークや扇情的な情報だらけで、何が本当なのか非常にわかりにくくなっていますが、事実や実際の数字を踏まえ、時系列的かつ論理的に物事を捉えて欲しいというのが、もしかしたら、デマント(とクルーゲ)のメッセ―ジなのかもしれません。
ロッカー・オブジェにしても、フラワー・オブジェにしても、アートとしての面白さだけでなく、いろいろなことを考えるヒントを提供してくれるのが嬉しいところです。ペトレンコ指揮ベルリン・フィルのショスタコーヴィチにふさわしい装丁です。
せっかくメッセージ性のある凝った装丁なので、セットの中身の音楽作品や、人物、団体などについても、時系列の表やリストといった切り口で取り上げてみます。
【作品&演奏情報】
ショスタコーヴィチの交響曲は20世紀作品ということもあり、楽器編成も大きく構造も複雑ですが、基本的には交響曲の伝統に則った作風なので、構成要素をある程度把握すれば鑑賞時の面白さも増して行く仕組みなのはベートーヴェンやマーラーの場合と同じと思われます。
ここでは、各作品の楽章ごとに、演奏時間を一般的な楽曲分析パターンに沿って時系列で区分し、デジタル・コンサート・ホールのラップ・タイムを記載、その横に、楽章冒頭タイムを[00:00]とした場合の変換時間をCD推測値として記載しておきます。
また、デジタル・コンサート・ホールの映像のメリットを生かして、各作品の実際の出演者を目視確認し、名簿としてまとめておきます。
◆ 交響曲第8番について
◆ 第8番こそレニングラード交響曲?
◆ タイム・テーブル
◆ 出演者リスト
◆ 交響曲第9番について
◆ タイム・テーブル
◆ 出演者リスト
◆ 交響曲第10番について
◆ タイム・テーブル
◆ 出演者リスト
【人物情報】
指揮者ペトレンコ、作曲者ショスタコーヴィチの年表を掲載するほか、ペトレンコと同じくシベリアと縁の深いショスタコーヴィチの曽祖父・祖父・両親についての簡易年表も掲載しておきます。
◆ キリル・ペトレンコ
◆ ショスタコーヴィチ・ファミリー前史
1800 1801 1802 1803 1804 1805 1806 1807 1808 1809 1810 1811 1812 1813 1814 1815 1816 1817 1818 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1825 1826 1827 1828 1829 1830 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 1840 1841 1842 1843 1844 1845 1846 1847 1848 1849 1850 1851 1852 1853 1854 1855 1856 1857 1858 1859 1860 1861 1862 1863 1864 1865 1866 1867 1868 1869 1870 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905
◆ ショスタコーヴィチ年表
1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975
【団体情報】
ベルリン・フィルについては、ショスタコーヴィチの交響曲のCDや映像のリストを掲載しておきます。
◆ ベルリン・フィルのショスタコーヴィチ
第1楽章展開部最後のトルコ行進曲と再現部の凄絶なトゥッティ、およびそれに続くイングリッシュホルンの3分を超える長大なソロの部分が有名です(デジタル・コンサート・ホールで16:06〜21:34。CDはおそらく15:19〜20:47付近)。
これはレニングラード市民を死に追いやるドイツ軍をトルコ行進曲で描き、そのドイツ軍に対して1943年1月に大量の砲弾を撃ち込んだ赤軍のイスクラ作戦を描いたものとも見ることができ、戦闘後の虚無の中に響くイングリッシュホルン・ソロは、あまりの悲惨さに泣くこともできないレニングラード市民のようにも思えます。
この演奏ではドミニク・ヴォレンヴェーバーのソロが聴きものですが、途中328小節から335小節でクラリネットとオーボエが加わる部分(DCH 20:03〜、CD 19:16〜)でも、ダイナミクスは抑制気味で、空腹で声も出なかった状況に配慮しているかのようでもあり、その悲痛な美しさは忘れがたい印象を与えます。
実際、レニングラードがドイツ軍の攻撃から解放されるのは、1944年1月に赤軍がドイツ軍陣地に対して2時間30分で約50万発の砲弾を撃ち込んで無力化した作戦でのことなので、それまでは市民の苦難は続いており、それが戦時に書かれた交響曲第8番の悲しみや奇想に繋がっているとも考えられます。
また、第5楽章の主要主題と副次主題は、素材的にはマーラーの交響曲第9番第3楽章でのロンド主題とアダージョ予告部分を思わせるので、オマージュ的な要素も含意されていそうですが、ペトレンコ指揮するベルリン・フィルの演奏では、各パートがリズムよく明晰に響き渡るので情報量が多く、特に展開部最後(56:39〜)はかなり露骨にマーラー・オマージュ風になっているのが興味深いところです。
マーラーは交響曲第9番で第3楽章の後に美しいアダージョを置いていますが、ショスタコーヴィチの場合は、戦況が好転したとはいえまだまだ凄惨な戦いが続いていたこともあり、複雑で落ち着きのない音楽の中に、明るい方向性だけを示すのがやっとのような雰囲気です。
1941年に作曲した交響曲第7番「レニングラード」が、1942年に各国で成功を収めたことで、ショスタコーヴィチは米ライフ誌の表紙を消防訓練姿で飾るなど国際的な知名度を獲得。
国内でも1941年と1942年にスターリン賞第1席を続けて受賞(賞金計20万ルーブル、現在換算で約3,800万円)、「ロシア共和国功労芸術家」の称号も授与されたことで地位を一気に高め、芸術問題委員会顧問と全ソ文化連絡協会、作曲家同盟の仕事も任され、モスクワの演奏を管理する団体「フィルハーモニー」での発言力も増していました。
そして翌1943年の1月末には、ソ連政府によってスターリングラードの解放宣言とレニングラードの勝利宣言がおこなわれ、その約5か月後の1943年7月にはショスタコーヴィチは交響曲第8番の作曲に取りかかっています。
しかしレニングラードが完全に解放されるのはさらに1年後の1944年1月の終わりのことですし、1943年2月中旬に食料や燃料の配給がおこなわれるようになって餓死・凍死の恐怖は去ったとはいえ、逃げ惑う人々を虐殺するドイツ軍とフィンランド軍、スペイン義勇部隊による砲撃と爆撃、機銃掃射はショスタコーヴィチの故郷ではまだ続けられていたのです。
作曲風景
じっくり構想して一気に書くというショスタコーヴィチのことなので、着想時期はわかりませんが、実際の記譜作業はモスクワの自宅で1943年7月に開始され、月末に第1楽章を完成。モスクワの南約500キロのクルスクで戦いが始まった8月には、反対側のモスクワの北東約200キロのイヴァノヴォの保養施設「作曲家の創造と休息の家」に移り、第2楽章から第5楽章までを9月中に完成させています。
「作曲家の創造と休息の家」は、ソ連作曲家同盟が貴族の大きな館を宿泊施設に改造したもので、近くには養鶏場や農園もあって食事に困らないことから、ハチャトゥリアン、プロコフィエフ、グリエール、そしてムラデリらも滞在しており、夕方には皆でバレーボールに興じたりするような余裕のある状態だったため、ショスタコーヴィチの心身も健康だったと考えられます。
また、ハチャトゥリアンによると、ショスタコーヴィチの書斎からはピアノの音が聴こえなかったということなので、まさに、じっくり構想していたものを一気に外に出していたということなのでしょう。
ちなみにクルスクの戦いでは、3週間ほどでティーガーやパンターなど最新戦車を大投入していたドイツ軍が敗走しています。
なお、同じ頃、妻のニーナは旧知の間柄の物理学者、アルチョム・アリハニアンから共同研究に誘われ、アルメニアのアラガツ山の標高3,250m地点で宇宙線を調査する高地探検隊に参加。アリハニアンと女性科学者のティナ・アサティアニと共に、空気シャワーの構造研究で新たな発見をおこなっています。この驚きの出来事により、以後、ニーナはモスクワの南約2千キロのエレヴァン(とアラガツ山)に何度も長期出張して共同研究をおこない、やがて1954年12月、実験に伴う放射線障害により45歳で急死するまでの11年間、モスクワとの二重生活を送ることになります。そしてニーナの葬儀の時にポータブル・レコード・プレーヤーで流していたのがこの交響曲第8番でした。
作曲時期の戦争犠牲者
戦局は確かにソ連優勢に転じてはいましたが、一方でドイツ軍とフィンランド軍、スペイン義勇部隊によるレニングラード攻撃はまだ続いており、同所での累計死者数はソ連側戦闘員が約40万人、レニングラード市民が少なくとも包囲下で60万人以上餓死させられており、避難時にもドイツ軍などの砲撃や爆撃で約40万人が虐殺されていました。
1939年の国勢調査ではレニングラード市の人口は約319万人で、1944年1月解放宣言時の人口は約60万人。徴兵と疎開、移住で多くが不在だったとはいえ、まさにジェノサイドです。
レニングラード大虐殺とは無関係だった第7番「レニングラード」
交響曲第7番はレニングラードの犠牲者がまだあまり多くない1941年9月末までにレニングラードで第1・2・3楽章を作曲しており、しかも構想そのものは戦前だったという話も複数の人間によって証言されています。また、10月にはショスタコーヴィチ家に避難命令が出たことからレニングラードを後にすることになり、第4楽章が完成したのは遷都先のクイビシェフで12月のことでした。
つまり第7番の作品構想にレニングラードの地獄絵図のイメージは含まれておらず、しかもレニングラード界隈はソ連最大の軍需工場地帯で、各地の赤軍部隊に兵器を送り出していたことから、戦意高揚的な音楽になったのは自然な成り行きだったということになりそうです。
もっとも、第1楽章についてはいわゆる「侵略の主題」が、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」(ショスタコーヴィチは前年に半年かけて改訂版を作成していました)のプロローグで民衆が廷吏に無理やり歌わされる新皇帝ボリスを待望する合唱「我らの父よ! 我らを誰の手におまかせなさるのか?」に似ていることや、構想が戦前ということを考慮すれば、スターリンと秘密警察NKVDと官僚らによる大粛清を暗に描いたものと見ることもできそうです。
レニングラード大虐殺との関係性が濃厚な第8番
1943年の交響曲第8番は、有史以来、最大の都市犠牲者を現在進行形で生み出し続けていた故郷レニングラードの戦いのさなかに作曲されているのですから、ショスタコーヴィチに明るい曲を期待する方が不自然というものです。
そして、じっくり構想して一気に書くというショスタコーヴィチの創作スタイルや、第7番との共通の動機の使用なども考慮すれば、この交響曲第8番こそレニングラードの戦いから受けた印象を反映させたものと考える方が時系列的には筋が通ります。
左端数値はデジタル・コンサート・ホールのラップ・タイムで、その隣のカッコ内の時間はCDの推測値です。右端のカッコ内は各部分の演奏時間となります。
第1楽章
0:47 (0:00) 序奏(53秒)
1:40 (0:53) 呈示部 第1主題(4分11秒)
5:51 (5:04) 呈示部 第2主題(2分56秒)
8:47 (8:00) 呈示部 第3主題(2分22秒)
11:09 (10:22) 展開部(4分56秒)
16:06 (15:19) 展開部 トルコ行進曲(1分2秒)
17:07 (16:20) 再現部 序奏(1分3秒)
18:10 (17:23) 再現部 第3主題(3分24秒)
21:34 (20:47) 再現部 第2主題(2分13秒)
23:47 (23:00) 終結部 序奏主題(31秒)
24:18 (23:31) 終結部 第1主題(58秒)
25:16 (24:29) 終結部 序奏主題(44秒)
26:00 (25:13) 終了(25分13秒)
第2楽章
27:19 (0:00) 主部(1分39秒)
28:58 (1:39) 中間部(1分56秒)
30:54 (3:35) 主部(49秒)
31:43 (4:24) 終結部(1分39秒)
33:22 (6:03) 終了(6分3秒)
第3楽章
34:34 (0:00) 主部(3分15秒)
37:49 (3:15) 中間部(1分6秒)
38:55 (4:21) 主部(1分39秒)
40:34 (6:00) 終了(6分)
第4楽章
40:34 (0:00) 前奏(12秒)
40:46 (0:12) 主題(48秒)
41:34 (1:00) 第1変奏(45秒)
42:19 (1:45) 第2変奏(46秒)
43:05 (2:31) 第3変奏(45秒)
43:50 (3:16) 第4変奏(46秒)
44:36 (4:02) 第5変奏(53秒)
45:29 (4:55) 第6変奏(51秒)
46:20 (5:34) 第7変奏(55秒)
47:15 (6:41) 第8変奏(55秒)
48:13 (7:39) 第9変奏(58秒)
48:58 (8:24) 第10変奏(52秒)
49:50 (9:16) 第11変奏(48秒)
50:38 (10:04) 終了(10分4秒)
第5楽章
第1部
50:38 (0:00) 主要主題(1分21秒)
51:59 (1:21) 主要主題展開(31秒)
52:30 (1:52) 副次主題(54秒)
53:24 (2:46) 主要主題展開(1分32秒)
第2部
54:56 (4:18) 展開部(3分14秒)
58:10 (7:32) 第1楽章冒頭動機(1分29秒)
第3部
59:39 (9:01) 主要主題展開(42秒)
1:00:21 (9:43) 副次主題展開(3分38秒)
1:03:59 (13:21) 終了(13分21秒)
第1ヴァイオリン首席
ノア・ベンディックス=バルグリー(アメリカ)
第2ヴァイオリン首席
伊藤真麗音(日本)
ヴィオラ首席
清水直子(日本)
チェロ首席
オラフ・マニンガー(ドイツ)
コントラバス首席
エスコ・ライネ(フィンランド)
フルート
マチュー・デュフール(フランス)
イェルカ・ヴェーバー(ドイツ)
ピッコロ(フルート持ち替え)
エゴール・エゴルキン(ロシア)
ミヒャエル・ハーゼル(ドイツ)
オーボエ
アルブレヒト・マイヤー(ドイツ)
アンドレアス・ヴィットマン(ドイツ)
イングリッシュホルン
ドミニク・ヴォレンヴェーバー(ドイツ)
クラリネット
ヴァルター・ザイファート(ドイツ)
アンドレアス・オッテンザーマー(オーストリア)
アレクサンダー・バーダー(ドイツ)
バス・クラリネット
マンフレート・プライス(ドイツ)
ファゴット
シュテファン・シュヴァイガート(ドイツ)
モル・ビロン(イスラエル)
コントラファゴット
ヴァーツラフ・ヴォナーシェク(チェコ)
ホルン
シュテファン・ドーア(ドイツ)
アンドレイ・ジュスト(スロヴェニア)
ヨハネス・ラモートケ(ドイツ)
サラ・ウィリス(アメリカ)
トランペット
ギヨーム・ジェール(アメリカ)
タマーシュ・ヴェレンツェイ(ハンガリー)
アンドレ・ショッホ(ドイツ)
トロンボーン
オラフ・オット(ドイツ)
イェスパー・ブスク・セアンセン(デンマーク)
トーマス・ライエンデッカー(ドイツ)
チューバ
アレクサンダー・フォン・プットカマー(ドイツ)
ティンパニ
ヴィーラント・ヴェルツェル(ドイツ)
ショスタコーヴィチは、「ナチス・ドイツに対するソ連の勝利を祝うものとして、オーケストラ、ソリスト、合唱のための大きな作品になるだろう」と自身で発表していたことから、周囲は当然ながら大きな作品に期待を寄せることになります。実際、終戦直前の1945年4月に第1楽章を聴かせてもらった友人のグリークマンは、壮大なスケールと哀愁、息を呑むような動きのあるものだったと述べていますが、ショスタコーヴィチはほどなくそうした傾向の作曲を中止しています。
そして、7月下旬から短期間で完成した新たな第9番は、壮大な要素の一切ない軽妙な作品に姿を変えていたのです。
ショスタコーヴィチが急遽方針を変更した理由ははっきりしていませんが、ナチス・ドイツによって、若者を中心にソ連国民の4人に1人の命が奪われた事実と、さらに多くの遺族の心情を思えば、単純に戦勝を祝う曲を書くことなどとてもできなかったのかもしれません。
新たな第9番の音楽は、戦争が終わってホッとする市民たちと、時々蘇る戦争の記憶を描いているようにも聴こえ、第8番終楽章の複雑な落ち着きの無さを、明るくシフトさせて継承したような印象もあり、その意味では現実の終戦を描いた戦争交響曲とも言える内容です。
面白いのはショスタコーヴィチがそうした楽想を表現するために、まるで管弦楽の為の協奏曲のような妙技をたっぷりと盛り込んだことで、ペトレンコ指揮ベルリン・フィルの手にかかると、その機動力と次々に登場するソロ技の数々に驚かされっぱなしということになります。
左端数値はデジタル・コンサート・ホールのラップ・タイムで、その隣のカッコ内の時間はCDの推測値です。右端のカッコ内は各部分の演奏時間となります。
第1楽章
0:30 (0:00) 呈示部 第1主題 (43秒)
1:13 (0:43) 呈示部 第2主題 (34秒)
1:47 (1:17) 呈示部 第1主題 (42秒)
2:29 (1:59) 呈示部 第2主題 (34秒)
3:03 (2:33) 展開部 (1分2秒)
4:05 (3:35) 再現部 第1主題 (30秒)
4:35 (4:05) 再現部 第2主題 (24秒)
4:59 (4:29) 終結部 (34秒)
5:33 (5:03) 終了(5分3秒)
第2楽章
6:03 (0:00) 主部(2分27秒)
8:30 (2:27) 中間部(3分36秒)
12:06 (6:03) 主部(1分27秒)
13:33 (7:30) 終了(7分30秒)
第3楽章
13:56 (0:00) 主部(1分)
14:56 (1:00) 中間部(33秒)
15:29 (1:33) 主部(1分11秒)
16:40 (2:44) 終了(2分44秒)
第4楽章
16:40 (0:00) (4分27秒)
21:07 (4:27) 終了(4分27秒)
第5楽章
21:07 (0:00) 呈示部 第1主題(56秒)
22:03 (0:56) 呈示部 第2主題(44秒)
22:47 (1:40) 呈示部 第1主題(25秒)
23:12 (2:05) 呈示部 第3主題(43秒)
23:55 (2:48) 展開部(2分3秒)
25:58 (4:51) 再現部 第1主題(22秒)
26:20 (5:13) 再現部 第3主題(32秒)
26:52 (5:45) 終結部(44秒)
27:36 (6:29) 終了(6分29秒)
第1ヴァイオリン首席
樫本大進(日本)
第2ヴァイオリン首席
伊藤真麗音(日本)
ヴィオラ首席
清水直子(日本)
チェロ首席
オラフ・マニンガー(ドイツ)
コントラバス首席
ヤンネ・サクサラ(フィンランド)
ピッコロ
エゴール・エゴルキン(ロシア)
フルート
マチュー・デュフール(フランス)
イェルカ・ヴェーバー(ドイツ)
オーボエ
アルブレヒト・マイヤー(ドイツ)
ジョナサン・ケリー(イギリス)
クラリネット
キリアン・ヘロルト(ドイツ)
アレクサンダー・バーダー(ドイツ)
ファゴット
シュテファン・シュヴァイガート(ドイツ)
モル・ビロン(イスラエル)
トランペット
タマーシュ・ヴェレンツェイ(ハンガリー)
アンドレ・ショッホ(ドイツ)
ホルン
シュテファン・ドーア(ドイツ)
サラ・ウィリス(アメリカ)
ステファン・デ・レヴァル・イェジアスキー(アメリカ)
ゲオルク・シュレッケンベルガー(ドイツ)
トロンボーン
オラフ・オット(ドイツ)
イェスパー・ブスク・セアンセン(デンマーク)
トーマス・ライエンデッカー(ドイツ)
チューバ
アレクサンダー・フォン・プットカマー(ドイツ)
ティンパニ
ヴィーラント・ヴェルツェル(ドイツ)
小太鼓等
ラファエル・ヘーガー(ドイツ)
大太鼓等
ジーモン・レスラー(ドイツ)
作曲に集中的に取り組んだのは1953年の夏から秋にかけてですが、着想が1946年を示す証拠があるとか、当時親しかったニコラーエワが1951年に聴いたなどという情報もあります。第1楽章の雰囲気が難解そうなこともあって、ホールに観衆を入れて3日間に渡って公開討論会まで開かれますが、体制が変わっていたことから反ショスタコーヴィチ音楽官僚たちの勢いが無く、「感情と情熱を描きたかった」とするショスタコーヴィチの優位に終わっています。
第1楽章
主要素材はグレゴリオ聖歌「怒りの日」が変形されたものという見方をすると、序奏主題も第1主題も第2主題もその範疇に収まって来るので、単一の主題による巨大なモニュメントのような楽章と捉えることも可能です。
また、曖昧な部分もある素材なので、前年の1952年10月に書かれた「プーシキンの詩による4つのモノローグ」の第2曲「あなたにとって私の名前は何ですか?」の引用とみることもできます。
「プーシキンの詩による4つのモノローグ」は、親しかったウストヴォリスカヤに献呈した作品で、その第2曲は少しクヨクヨ系の未練がましいような印象もある曲です(ちなみに第1曲はユダヤ人家族のもとを深夜に訪れて重々しくノックする巡礼者の不気味さを描いていますが、巡礼者=ロシア帝国の秘密警察、オフラーナのことかもしれません)。
また、ショスタコーヴィチは前年の弦楽四重奏曲第5番では、自分の名前を示すDSCH音型の変形と共に、ウストヴォリスカヤの「クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲」の旋律をそのまま組み込んでもいました。
要するに第1楽章にはショスタコーヴィチの個人的な気持ちも関わっている可能性が高いということになりますが、ウストヴォリスカヤ作品の直接引用ではないのと、DSCH音型の変形使用も少ないことから、前年の弦楽四重奏曲第5番に較べれば、ウストヴォリスカヤへの思いは吹っ切れた状況と見ることもできます。
第1楽章は重々しくシリアスでモニュメント的な音楽ではありますが、マーラーの交響曲第9番第1楽章の第1主題も「怒りの日」の変形であることや、その第1楽章の巨大なフレームの影響を感じさせるところなども含めて、ショスタコーヴィチの音楽の多義性について改めて考えさせられるユニークな音楽に仕上がっていると思います。
第2楽章
スケルツォ楽章ですが、本来の「主部・トリオ・主部」の3部構成ではなく、最初の「主部」のみの構成となっており、なおかつテンポが速いため、時間が非常に短い楽章となっています。その強烈なスピード感とダイナミズムはインパクト絶大で、第1楽章の重さから一気に気分転換を図る効果も十分。
この楽章では「ボリス・ゴドゥノフ」の冒頭主題に似た旋律が使われていることからスターリンを描いたものとも言われてきました。ショスタコーヴィチは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では舅ボリスを毒殺した直後にカテリーナが嘆いているふりをする歌に「ボリス・ゴドゥノフ」の民衆の合唱の旋律を引用していたほか、交響曲第7番第1楽章の侵略の主題でも同じ旋律を変形使用していたので、プーシキンの描いた「ボリス・ゴドゥノフ」が悪玉だったことからもその素材が「悪の主題」という認識だったと考えられます。しかしどちらの場合も滑稽味を含んでいたことを考えると、このスケルツォ楽章での勇ましさと格好の良さは不思議ではありますが、実際にはスターリンはナチス・ドイツに打ち勝つなど悪い面ばかりでもなかったことから抽象化・圧縮して表現しているのかもしれません。また、ここでも途中で「怒りの日」の変形素材が効果的に使用されています。
第3楽章
マーラー「大地の歌」第1楽章や同じくマーラーの交響曲第5番第3楽章へのオマージュのような音楽。第1主題には第2楽章の冒頭動機の変形が含まれ、第2主題にはDSCH音型が含まれるという構造で、その後、ホルンの特徴的な音型が12回も登場して目立ちますが、それは1947年からショスタコーヴィチがモスクワ音楽院で作曲を指導していたユダヤ系アゼルバイジャン人のエリミーラ・ナジーロヴァ[1928-2014]の名前を表しています。エリミーラへの指導は1948年にジダーノフ批判でショスタコーヴィチが解雇されたことで終わっており、その年にエリミーラは同郷のアゼルバイジャン人医学生と結婚してバクーに戻ってバクー音楽院で勉強を続け、やがてピアニスト、作曲家として活動を開始。ショスタコーヴィチは1952年にバクーを2度訪れたほか、エリミーラもモスクワに仕事で何度も出向いていますが、2人の手紙のやりとりが頻繁だったのは1953年の夏から秋にかけて交響曲第10番を作曲していた時くらいなので、単にショスタコーヴィチのイメージ上のミューズとして必要だったということかもしれません。ともかく第3楽章でのホルンのエリミーラ動機にアプローチするDSCH動機は非常に情熱的で、合体までしています。
第4楽章
マーラーの交響曲第5番第5楽章へのオマージュのような音楽。序奏部は悲し気な美しさが印象的で、「怒りの日」の変形使用も効果的。じらしにじらされてから登場する第1主題はとても快活で第2主題はワイルド。展開部では第2楽章の猛烈な音楽が再現されるもののDSCH音型が最後にさえぎって打ち克ち、エネルギッシュな再現部へと繋げ、DSCH音が盛大に演奏される中、喜びのエンディングを迎えます。
ペトレンコ指揮ベルリン・フィルによる演奏はリズムもフレージングもパート・バランスも素晴らしく、この作品の魅力が実はかなり多面的なものでであることを明確に教えてくれます。
左端数値はデジタル・コンサート・ホールのラップ・タイムで、その隣のカッコ内の時間はCDの推測値です。右端のカッコ内は各部分の演奏時間となります。
第1楽章
0:45 (0:00) 序奏部(2分23秒)
3:08 (2:23) 呈示部 第1主題(4分3秒)
7:11 (6:26) 呈示部 第2主題(2分47秒)
9:58 (9:13) 展開部(4分9秒)
14:07 (13:22) 再現部 第1主題(3分11秒)
17:18 (16:33) 再現部 第2主題(3分24秒)
20:42 (19:57) 終結部(3分12秒)
23:54 (23:09) 終了(23分9秒)
第2楽章
24:23 (0:00) 主部 第1主題(4分23秒)
28:26 (4:23) 終了(4分23秒)
第3楽章
29:00 (0:00) 主部 第1主題(1分4秒)
30:04 (1:04) 主部 第2主題(1分16秒)
31:20 (2:20) 主部 第1主題(1分)
32:20 (3:20) 中間部(2分49秒)
35:09 (6:09) 主部 第1主題(1分10秒)
36:19 (7:19) 主部 第2主題(3分11秒)
39:30 (10:30) 終結部(1分19秒)
40:49 (11:49) 終了(11分49秒)
第4楽章
41:26 (0:00) 序奏部(4分12秒)
45:38 (4:12) 呈示部 第1主題(1分14秒)
46:52 (5:26) 呈示部 第2主題(38秒)
47:30 (6:04) 展開部(1分47秒)
49:17 (7:51) 展開部 第2楽章素材(37秒)
49:54 (8:28) 展開部 序奏(1分20秒)
51:14 (9:48) 再現部 第1主題(49秒)
52:03 (10:37) 再現部 第2主題(19秒)
52:22 (10:56) 終結部(1分3秒)
53:25 (11:59) 終了(11分59秒)
第1ヴァイオリン首席
樫本大進(日本)
第2ヴァイオリン首席
伊藤真麗音(日本)
ヴィオラ首席
アミハイ・グロス(イスラエル)
チェロ首席
ルートヴィヒ・クヴァント(ドイツ)
コントラバス首席
ヤンネ・サクサラ(フィンランド)
フルート
エマニュエル・パユ(フランス)
ミヒャエル・ハーゼル(ドイツ)
ピッコロ
エゴール・エゴルキン(ロシア)
オーボエ
アルブレヒト・マイヤー(ドイツ)
アンドレアス・ヴィットマン(ドイツ)
イングリッシュホルン
ドミニク・ヴォレンヴェーバー(ドイツ)
クラリネット
ヴェンツェル・フックス(オーストリア)
アレクサンダー・バーダー(ドイツ)
ヴァルター・ザイファート(ドイツ)
バス・クラリネット
マンフレート・プライス(ドイツ)
ファゴット
シュテファン・シュヴァイガート(ドイツ)
マルクス・ヴァイトマン(ドイツ)
コントラファゴット
ヴァーツラフ・ヴォナーシェク(チェコ)
ホルン
シュテファン・ドーア(ドイツ)
アンドレイ・ジュスト(スロヴェニア)
ヨハネス・ラモートケ(ドイツ)
ヘリー・ユー(韓国)
トランペット
ギヨーム・ジェール(アメリカ)
タマーシュ・ヴェレンツェイ(ハンガリー)
アンドレ・ショッホ(ドイツ)
マティアス・ザイツ(ドイツ)
トロンボーン
クリスタート・ゲスリング(ドイツ)
イェスパー・ブスク・セアンセン(デンマーク)
シュテファン・シュルツ(ドイツ)
チューバ
アレクサンダー・フォン・プットカマー(ドイツ)
ティンパニ
ヴィーラント・ヴェルツェル(ドイツ)
小太鼓等
ジーモン・レスラー(ドイツ)
タムタム等
フランツ・シンドルベック(ドイツ)
オペラ指揮者
飛躍のきっかけはマイニンゲン時代の2001年、29歳で取り組んだ「ニーベルングの指環」の成功で、以後、各国に客演することとなり、ドイツのオペラ誌「Opernwelt」では、2007、2009、2014、2015、2020年に年間最優秀指揮者に選ばれてもいました。
オペラの客演は、2000年のフィレンツェ5月音楽祭を皮切りに、ウィーン国立歌劇場、ザクセン州立歌劇場、リセウ大劇場、パリ・オペラ座、コヴェントガーデン王立歌劇場、バイエルン州立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、フランクフルト歌劇場、リヨン国立歌劇場、バイロイト音楽祭と続いています。
コンサート指揮者
オーケストラ・コンサートへの客演も盛んで、シカゴ響、クリーヴランド管、ロサンジェルス・フィル、コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、シュターツカペレ・ドレスデン、ハンブルク・フィル、NDR響(ハンブルク)、WDR響(ケルン)、MDR響(ライプツィヒ)、デュースブルク・フィル、ケルン・フィル、ウィーン放送響、ウィーン響、オスロ・フィル、ローマ聖チェチーリア管、RAI国立響(トリノ)、ロンドン・フィル、イスラエル・フィルなどを指揮。ベルリン・フィルへの初登場は2006年2月。
楽譜の研究と自分の音
ペトレンコはどんな作品でも必ず、頭の中で「自分の音」を響かせるまで楽譜を繰り返し研究するそうです。そしてリハーサルではその「自分の音」の実現に向けて、自分の考えとそのための要求を楽員に伝え、目標実現に向けて共に努力するというのが基本スタイルになっているのだとか。そのため、楽員や歌手の能力や集中力が常に維持されるような友好的な雰囲気の中で仕事をするのがペトレンコ流儀で、それが作品情報の伝達力や演奏の完成度の高さの秘訣にもなっています。
切れ味抜群で高解像度なショスタコーヴィチ
数多くの共演を果たしてきたペトレンコとベルリン・フィルによるショスタコーヴィチ演奏は強烈です。
現代最高のオーケストラによる全パートの名人芸が、切れの良いリズム、正確な音価とダイナミクスで生かされているため、全編に渡って見事な拍節感が生み出されています。
結果としてどのフレーズも隅々まで整えられていることから、繊細な起伏や「間」の表現にも秀でており、たとえば通常、平板に流れがちな交響曲第8番第1楽章のアダージョ部分や、第4楽章パッサカリアでもきわめて精密な変化を聴かせてくれます。
また、パート間のバランスも常に配慮が行き届いており、主旋律を強調し過ぎて重要な他声部が疎かになるなどといったことがまずないため、これまで体験できなかったようなテクスチャ―の面白さが随所で待ち受けています。
ショスタコーヴィチは、家じゅうの時計を常に同期させたり、毎日同じ時刻に食堂に現れたりと、非常に時間にうるさい人物だったので、演奏に際しても時間の正確さは重要かもしれません。
ベルリン・フィルの能力を最大限引き出す卓越した指揮ぶり
こうした楽譜肉薄型の高解像度で精密な演奏が可能なのはベルリン・フィルの驚異的な腕前とパワーがあればこその話ですが、ベルリン・フィルでもここまでハイレベルなものはこれまで聴けなかったよう思います。たとえばデジタル・コンサート・ホールで2010年のネルソンス指揮による第8番の演奏も聴けますが、細部の綿密な仕上げではペトレンコの方が明らかに魅力的です。
レーニン家族法世代の超天才だったショスタコーヴィチ
ペトレンコ指揮ベルリン・フィルによるリズムや拍の克明な演奏で聴くと、ショスタコーヴィチがレーニンの家族法(1918年)のもたらした自由恋愛の世の中で青年時代を過ごし、頭脳も体もリズミカルにフル回転の活力旺盛な音楽家で、本人のピアノ演奏もそんな感じだったことに改めて思いが至ります。
1972
◆ 2月11日、ソ連、西シベリアの大都市オムスクに誕生。父のガリー・ペトレンコはソ連、西ウクライナのリヴォフの生まれで、ヴォルガ・ドイツ人らも多く移住していたオムスクに移り住んだユダヤ系のヴァイオリニスト。母は音楽学者
1983
◆ ピアニストとして地元オムスクの交響楽団と共演
1990
◆ ペトレンコ家はオーストリアのフォアアールベルク州に移住。父が同地の音楽学校で働くことになったため。父は教職だけでなく、友人とアルペジョーネ・ホーエネムス室内管弦楽団を結成して活動
◆ フォアアールベルク州のフェルトキルヒ国立音楽院でフェレンツ・ポーグナーにピアノを師事
◆ ウィーン音楽大学に入学し、ウロシュ・ラヨヴィチらに指揮を師事
1995
◆ フォアアールベルクで、ブリテン「オペラを作ろう」で指揮者デビュー
1997
◆ ウィーン音楽大学を卒業
◆ ウィーン・フォルクスオーパーのカペルマイスターに就任
1998
◆ ウィーン・フォルクスオーパーのカペルマイスター
1999
◆ ウィーン・フォルクスオーパーのカペルマイスターを退任
◆ マイニンゲン歌劇場の音楽総監督に就任
2000
◆ マイニンゲン歌劇場音楽総監督
◆ フィレンツェ5月音楽祭に出演
2001
◆ マイニンゲン歌劇場音楽総監督
◆ 同劇場の「ニーベルングの指環」で成功
◆ 12月、ウィーン国立歌劇場に「魔笛」でデビュー
◆ ドレスデン州立歌劇場デビュー
2002
◆ マイニンゲン歌劇場の音楽総監督を退任
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭、モーツァルテウム管弦楽団、モーツァルト34番、アリアーガ:交響曲第ニ長調、他
◆ ベルリン・コーミシェオーパーの音楽総監督に就任
2003
◆ ベルリン・コーミシェオーパー音楽総監督
◆ リセウ大劇場デビュー
◆ パリ国立歌劇場デビュー
◆ コヴェントガーデン王立歌劇場デビュー
2004
◆ ベルリン・コーミシェオーパー音楽総監督
◆ 9月、ウィーン国立歌劇場「リゴレット」
2005
◆ ベルリン・コーミシェオーパー音楽総監督
◆ フランクフルト歌劇場デビュー
2006
◆ ベルリン・コーミシェオーパー音楽総監督
◆ 2月、ベルリン・フィルに初客演
◆ リヨン国立歌劇場デビュー
2007
◆ ベルリン・コーミシェオーパー音楽総監督を退任
◆ 7月、ウィーン響、ショスタコーヴィチ:交響曲第14番、ブリテン:シンプル・シンフォニー
◆ リヨン国立歌劇場
◆ ドイツのオペラ誌「Opernwelt」で年間最優秀指揮者に選出
2008
◆ 9月、ウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」
◆ リヨン国立歌劇場
2009
◆ 8月、ウィーン響、シマノフスキ:交響曲第4番、スクリャービン「法悦の詩」、他
◆ バイエルン州立歌劇場「イェヌーファ」
◆ リヨン国立歌劇場
◆ フランクフルト歌劇場「パレストリーナ」
◆ ドイツのオペラ誌「Opernwelt」で年間最優秀指揮者に選出
2010
◆ 5〜6月、ウィーン国立歌劇場「エフゲニー・オネーギン」
◆ リヨン国立歌劇場
2011
◆ 2月、ウィーン響、ツェムリンスキー:抒情交響曲、リャードフ:「魔法にかけられた湖」、スクリャービン:「法悦の詩」
◆ 8月、ウィーン響、シェーンベルク「ナポレオン・ボナパルトへの頌歌」、チャイコフスキー:マンフレッド交響曲、他
◆ フランクフルト歌劇場「トスカ」
2013
◆ 1月、コンセルトヘボウ管、R=コルサコフ:シェエラザード、他
◆ 3月、メトロポリタン歌劇場「ホヴァンシチナ」
◆ バイロイト音楽祭「ニーベルングの指環」
◆ 9月、バイエルン州立歌劇場の音楽総監督に就任
2014
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
◆ バイロイト音楽祭「ニーベルングの指環」
◆ 11月、ウィーン国立歌劇場「ばらの騎士」
◆ ドイツのオペラ誌「Opernwelt」で年間最優秀指揮者に選出
2015
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
◆ バイロイト音楽祭「ニーベルングの指環」
◆ ドイツのオペラ誌「Opernwelt」で年間最優秀指揮者に選出
2016
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
◆ 4月、ウィーン・フィル、メンデルスゾーン3番、マーラー:大地の歌
2017
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
2018
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭、ベルリン・フィル、ドン・ファン、死と変容、ベートーヴェン7番、デュカス:ラ・ペリ、シュミット:交響曲第4番、他
◆ 12月、ウィーン・フィル、シュテファン:管弦楽の為の音楽、R.シュトラウス:メタモルフォーゼン、ブラームス4番
2019
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
◆ ベルリン・フィルの音楽監督に就任
2020
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督
◆ ベルリン・フィル音楽監督
◆ ドイツのオペラ誌「Opernwelt」で年間最優秀指揮者に選出
2021
◆ ベルリン・フィル音楽監督
◆ バイエルン州立歌劇場音楽総監督を退任
◆ 12月、ウィーン・フィル、シュニトケ:ヴィオラ協奏曲、スクリャービン:交響曲第3番「神聖な詩」
2022
◆ ベルリン・フィル音楽監督
2023
◆ ベルリン・フィル音楽監督
曽祖父(父方)
ピョートル・ミハイロヴィチ・ショスタコーヴィチ
1808-1871 Peter Mihailovich Szostakowicz
1808
◆ ロシア帝国、シェメトヴォ(現ベラルーシ)で誕生し、科目等履修生としてヴィルナ(現リトアニア、ヴィルニュス)の医科外科アカデミーを卒業
1830
◆ ポーランドの反乱勢力側に参加
1831
◆ 11月蜂起に参加
◆ ロシア帝国軍に捕らえられ、妻のマリア・ヨセファ・ヤシンスカとともにウラルのペルミに追放。家ではポーランド語を喋り、外ではロシア語を使用
1830年代
◆ ウラルのエカテリンブルクに転居
1845
◆ 長男ボレスラフ=アルトゥール・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ誕生
1849
◆ 次男ヴィトルト・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ誕生
1850年代
◆ ロシア市民階級第8等に昇進
1858
◆ カザンに転居
1860年代
◆ トムスクに転居
1871
◆ エカテリンブルクで死去
祖父(父方)
ボレスラフ=アルトゥール・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ
1845-1919 Boleslav-Artur Petrovich Szostakowicz
1808
◆ ロシア帝国、シェメトヴォ(現ベラルーシ)で誕生し、科目等履修生としてヴィルナ(現リトアニア、ヴィルニュス)の医科外科アカデミーを卒業。
1845
◆ 2月8日(1月27日)、ロシア帝国、エカテリンブルクで誕生
1858
◆ カザンに転居。第1カザン・ギムナジウムに編入
1861
◆ 第1カザン・ギムナジウム在学中に革命結社「土地と自由」の幹部らと交流
1862
◆ モスクワに行き、ニジニ・ノヴゴロド鉄道の管理に従事
1863
◆ ポーランド蜂起に参加
1864
◆ ヴァルバラ・ガヴリロヴナ・シャポシニコワらと共に、のちにパリ・コミューンの英雄となる革命家ヤロスラフ・ドンブロフスキーの脱獄に関与
1865
◆ ヴァルバラと共にカザンに帰還
1866
◆ ロシア皇帝アレクサンドルU世暗殺未遂事件の共謀者ヤクブ・ポプワフスキーを匿った容疑でカザンで逮捕、モスクワに護送され、政治犯としてペトロパブロフスク要塞に収監(ポプワフスキーはポーランドのショスタコーヴィチ研究者クシシュトフ・メイエルの祖先)。取り調べの際に1863年の革命家ドンブロフスキー脱獄幇助事件に関わっていたことが発覚
◆ 9月24日、最高裁で強制労働の判決ののち、シベリア、ノヴォシビリスクの北東約320kmのところにあるマリインスクへの居住という強制措置に減刑
◆ マリインスク居住開始。しかし3か月後にポーランド人とロシア人により、蜂起を企てたことが発覚
1867
◆ 蜂起計画の容疑で裁判にかけられることになり、ノヴォシビリスクの西約600kmのオムスクに移送
◆ 指定居住地がマリインスクからトムスクに変更。トムスクはノヴォシビリスクの北東約210kmのところにある皇帝ボリス・ゴドゥノフの創った町
◆ 春、トムスク居住開始。ベレストフ将軍の推薦でトムスク州政府の事務職に採用
1869
◆ ヴァルヴァラ・ガヴリロヴナ・シャポシニコワと結婚。トムスクで2人の子供が誕生。
1872
◆ 国家犯罪人ピョートル・ウスペンスキーとの交流が発覚したため指定居住地が変更。トムスクの北西約340kmのナリムに居住開始。同地では5人の子供が誕生し計7人に。ボレスラフは狩猟や漁に従事し、ヴァルヴァラは菜園を営んだほか、蜂蜜や酒を作って売り、パンも焼いていました
1876
◆ ボレスラフは、政治経済、地理、植物学、会計学を勉強。石炭や金の鉱脈があるという情報を確かめるために、ヴァシュガン川とチズハプカ川を訪れて調査し、ナリュムスコエ地方に関する論文を執筆
1877
◆ 4月、トムスクに戻ることが許可
◆ ペトロフ・ミハイロフ商会で会計士として働き、同時にトムスク市議会の公選議員、町議会議員として地方行政に参画し活動
1887
◆ イルクーツクのシベリア貿易銀行の地方支店のマネージャーに就任
1892
◆ 世襲名誉市民となり居住の自由を与えられますが、シベリアにとどまります。
1902
◆ イルクーツク市長に選出(1903年まで)。
1919
◆ イルクーツクで死去。
祖父(母方)
ヴァシリー・ヤコヴレヴィチ・コクーリン
1850-1911 Vasily Yakovlevich Kokoulin
1850
◆ 東シベリア、キレンスクで誕生
1860年代前半
◆ 東シベリア、キレンスクの市立学校を卒業
1860年代後半
◆ キレンスクの約400キロ東のボダイボに転居。当時「ゴールドラッシュ」に沸いていた地
◆ ボダイボ、レナ川の金採掘場の管理事務所に事務員として就職
1872
◆ ヤーコフ誕生
1878
◆ ソフィア誕生
1889
◆ ボダイボ、レナ川の金採掘場の管理事務所の所長に昇格
1890年代
◆ 労働者のために保険や医療を導入し、暖かいバラックを建設
◆ 妻のアレクサンドラ・ペトロブナ・コクリナが労働者の子供たちのための学校を開設
◆ 妻のアレクサンドラが、ボダイボでアマチュア・オーケストラを組織
1898
◆ 管理事務所の所長を辞任し、クリミアに転居
1905
◆ 妻アレクサンドラが亡くなったため、ボダイボに帰還
1907
● ロシア帝国とイギリスの間で英露協商が締結
1910
◆ サンクトペテルブルクの実業家や貴族が所有するレナ金鉱組合が一帯の鉱山を買収し、ロンドン、パリ、サンクトペテルブルクでも株式の取引が開始
1911
◆ 死去
1912
◆ レナ川虐殺事件発生
父
ドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチ
1875-1922 Dmitri Boleslavovich Shostakovich
1875
◆ 10月11日、ロシア帝国、シベリア、トムスクのナリムで誕生。両親の強制移住先でした
1880年代
◆ トムスクに転居
◆ イルクーツクに転居
1890年代半ば
◆ イルクーツクの実家を出てサンクトペテルブルクに転居
1897
◆ サンクトペテルブルク大学に入学(物理数学部自然学科)
1900
◆ 同大学卒業
◆ 化学者ドミトリー・メンデレーエフ[1834-1907]が創設して間もない度量衡局に採用
1902
◆ 度量衡局の検証主任
1903
◆ 2月、同級生の妹で音楽家のソフィア・ヴァシリエヴナ・コクーリナと結婚
1905
◆ 1月22日、「血の日曜日事件」のデモ隊に参加
1906
◆ 検証室長に就任
1907
◆ 2月、メンデレーエフ局長が死去
◆ 度量衡局を退職し、レンネンカンプ地所の泥炭採取業を監督する総支配人に就任。高給だったため、ショスタコーヴィチ家は、夏の休暇では郊外のラドガ湖畔のイリノフカに滞在
1914
◆ 軍需産業に投資する会社に管理職として転職
1917
◆ 10月革命後の産業国有化に際し、国営企業に就職。ほどなく度量衡局に戻り、副局長に就任
1922
◆ 47歳で死去
母
ソフィア・ヴァシリエヴナ・ショスタコーヴィチ(旧姓:コクーリナ)
1878-1955 Sofiya Vasilievna Shostakovich (Kokoulina)
1878
◆ 3月10日、シベリアのボダイボで誕生。6人兄弟の3番目
1880年代
◆ 母親のアレクサンドラ・ペトロヴナ・コクーリナからピアノのレッスン
1890
◆ イルクーツク高等女学校に入学
1896
◆ イルクーツク高等女学校を卒業
◆ イルクーツクでピアニスト、合唱指揮者として活動
1898
◆ 一家のクリミアへの転居を機に、兄の住んでいたサンクトペテルブルクに妹と共に転居
◆ サンクトペテルブルク音楽院に入学、S.A.マロゼモワ、A.A.ロザノワに師事
◆ シベリア生まれで音楽愛好家のドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチと知り合い交際
1903
◆ 2月、ドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチと結婚
◆ 10月、長女マリア・ドミトリエヴナ(フレデリクス)[1903-1973 ピアニスト]、誕生
1906
◆ 9月、長男ドミトリー・ドミトリエヴィチ、誕生
1909
◆ 次女ゾーヤ・ドミトリエヴナ(フルシチョワ)[1908.08.21-1990.11.16 科学者]、誕生
1955
◆ 死去
◆=ショスタコーヴィチ関連 ●=社会関連 ★=区切り
● ロシア皇帝パーヴェル1世から侮辱されたり罷免されたりしていた3人の貴族、ピョートル・アレクセーヴィチ・パレン伯爵[1745-1826]、ニキータ・ペトロヴィチ・パニン伯爵[1770-1837]、オシップ・ミハイロヴィチ・デリバス提督(兼大臣)[1751-1800]らが、パーヴェル1世の暗殺を計画
● 12月、パーヴェル1世から厚遇されるようになったデリバス提督が態度を変えると、49歳で急死(パレン伯爵による毒殺説あり)
● 3月23日、ロシア皇帝パーヴェル1世(パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ)[1754-1801]、ミハイロフスキー城の寝室で12人の罷免士官らによる殴打などにより46歳で暗殺。死因は脳卒中と発表され、100年以上に渡って事実を隠蔽
● 3月23日、息子のアレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ[1777-1825]がロシア皇帝に即位。23歳でアレクサンドル1世に。
● 6月、ロシア・ペルシャ戦争勃発。
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 4月、第三次対仏大同盟が発足。ナポレオンに対抗するため、ロシア帝国、大英帝国、神聖ローマ帝国諸国などにより結成
● 12月、第三次連合戦争勃発。ナポレオン軍(フランス、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、スイス、イタリア、スペイン、バタヴィア、エトルリア、ポーランド)と、第三次対仏大同盟軍(イギリス、ロシア、神聖ローマ帝国諸国、スウェーデン、ナポリ、シチリア、他)による戦争。ナポレオン側の勝利
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 7月、ナポレオンがライン同盟を結成。プロイセンやオーストリア以外の神聖ローマ帝国のドイツ諸国をすべてまとめたもの
● 9月、第4次対仏大同盟が発足。ナポレオンに対抗するため、プロイセン、ザクセン、ロシア帝国、大英帝国、スウェーデン、シチリアなどにより結成
● 10月、第4次連合戦争、勃発
● 12月22日、第8次露土戦争(1806-1812)、勃発。オスマン帝国がロシア帝国に宣戦布告
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 第8次露土戦争(1806-1812)。
● 2月7〜8日、アイラウの戦い。ロシア軍約6万7千人&プロイセン軍約9千人(死傷者約1万5千〜2万9千人)に対し、フランス軍約6万5千人(死傷者約1万5千〜3万人)。戦場はプロイセンのアイラウ。勝者無し。フランス兵士は1,152人が投降しロシア側の俘虜に。
● 6月2日、フリートラントの戦いでフランスが勝利。ロシア軍約6万5千人(死傷者約1〜2万5千人)に対し、フランス軍約8万人(死傷者約8〜1万2千人)。戦場はプロイセンのフリートラント。
● 7月、ティルジットの和約。フランスとロシア、イギリスが講和条約を締結。ナポレオンはロシアにフィンランド自由処分を認めていました
◆ 曽祖父ピョートル・ミハイロヴィチ・ショスタコーヴィチ、ロシア帝国、シェメトヴォ(現ベラルーシ、ミンスク州ミャデル)で誕生
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 第8次露土戦争(1806-1812)。
● 2月21日、ロシア・スウェーデン戦争(1808-1809)、勃発。戦場はフィンランド。フランスとデンマークが支援するロシアと、イギリスが支援するスウェーデンとの戦争。1142年以降、約700年間に大小合わせて22回に及んだロシアとスウェーデンの戦争の最後のもの。
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 第8次露土戦争(1806-1812)。
● 9月7日、ロシア・スウェーデン戦争(1808-1809)にロシア帝国が勝利。フレデリクスハムンの和約によりスウェーデンは、フィンランド全土とオーランド諸島、ルネ川までのラップランド、ムオニオをロシアに割譲。
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 第8次露土戦争(1806-1812)。
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 第8次露土戦争(1806-1812)。
● ロシア・ペルシャ戦争。
● 5月28日、第8次露土戦争(1806-1812)にロシア帝国が勝利。ブカレスト条約により、ベッサラビア(モルダヴィア公国の東半分)とグルジアの大半を領土化。
● 6〜12月、第1次大祖国戦争にロシア帝国が勝利。ナポレオン軍が約69万人でロシア帝国に侵攻。フランス(とバイエルン、バーデン、ザクセン、ベルク、ヴェストファーレン、ワルシャワ、ナポリ、イタリア、スペイン、スイス)とオーストリア、プロイセン、デンマーク=ノルウェーによる史上最大規模の軍勢。
● 2月27日、プロイセン王国がフランス帝国との同盟を破棄
● 3月、第六次対仏大同盟結成
● 8月26〜27日、「ドレスデンの戦い」。 ● 10月16〜19日、「ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)」。ロシア約14万5千、オーストリア約11万5千、プロイセン約9万、スウェーデン約2万5千、メクレンブルク=シュヴェリーン約6千の連合軍勢約38万1千が、ナポレオン軍(フランス約16万、ライン同盟約4万、ワルシャワ約1万5千、イタリアとナポリ約1万)の軍勢約22万5千に勝利。ナポレオンによるドイツ支配の終焉
● 10月24日、ロシア・ペルシャ戦争にロシア帝国が勝利。ゴレスターン条約により、グルジアとアゼルバイジャンの一部を併合。
● 9月、ウィーン会議、開始。
● 3月、第七次対仏大同盟結成
● 6月、ウィーン会議、終了。オスマン帝国からベッサラビアを獲得したほか、ワルシャワ公国の大部分をポーランド立憲王国として事実上のロシア領化。
● コーカサス戦争、勃発。以後、1864年にロシア帝国が勝利するまで47年間に渡って散発的に小規模な戦闘が継続。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● オデッサでポグロム発生。ギリシャ人によるユダヤ人の虐殺
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● 12月1日、ロシア皇帝アレクサンドル1世、47歳で崩御
● 12月1日、弟のニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ[1796-1855]がロシア皇帝に即位。29歳でニコライ1世に。
● 12月14日、デカブリストの乱。専制政治と農奴制の廃止を訴えて約3千人の将校たちによるク―データー未遂事件。すぐに鎮圧されましたが、のちの革命運動に大きな影響を与えます。
● コーカサス戦争。
● 第2次ロシア・ペルシャ戦争勃発。
● コーカサス戦争。
● 第2次ロシア・ペルシャ戦争。
● コーカサス戦争。
● 第2次ロシア・ペルシャ戦争にロシア帝国が勝利。
● 4月26日、第9次露土戦争(1828-1829)、勃発。ロシア軍約9万2千人に対し、オスマン軍約15万人。戦場はバルカン半島とカフカース。
● コーカサス戦争。
● 9月14日、第9次露土戦争(1828-1829)にロシア帝国が勝利。エディルネ条約により。黒海東海岸の大部分とドナウ川河口がロシア帝国に割譲。ロシア帝国はオスマン帝国が莫大な賠償金を支払い終えるまでの間、モルダヴィアとワラキアを占領する権利を獲得。
◆ 曽祖父ピョートル、科目等履修生としてヴィルナ医科外科アカデミーを卒業
◆ 曽祖父ピョートル、ポーランドの反乱勢力側に参加
● コーカサス戦争。
● 7月、フランス7月革命勃発
◆ 曽祖父ピョートル、11月蜂起に参加
◆ 曽祖父ピョートル、ロシア帝国軍により捕らえられ、妻のマリア・ヨセファ・ヤシンスカとともにウラルのペルミに追放。家ではポーランド語を喋り、外ではロシア語でした
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
◆ 1840年代、曽祖父ピョートル、ウラルのエカテリンブルクに転居
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
◆ 曽祖父ピョートルの長男ボレスラフ=アルトゥール・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ誕生
◆ 2月8日(1月27日)、祖父ボレスラフ、ロシア帝国、エカテリンブルクで誕生
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● バクー(現アゼルバイジャン首都)で、ロシア帝国により世界初の本格的油井掘削開始
● ケネサリー・カシモフの蜂起。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● ケネサリー・カシモフの蜂起、ロシア帝国により鎮圧。現在のカザフスタンを中心に長期間続いたロシアへの攻撃と略奪。
● コーカサス戦争。
● 1848年革命(諸国民の春)勃発
● 2月、フランス2月革命勃発
● 2月、ウィーン2月革命勃発
● 3月、ドイツ・オーストリア3月革命勃発
● ウクライナ民族解放運動が活発化
● 3月、ポーランド蜂起(5月に鎮圧)。ポーランド民兵とゲリラがプロイセン軍などと戦闘
● 4月、モルダヴィア革命勃発(7月に鎮圧)
◆ 曽祖父ピョートルの次男ヴィトルト・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ誕生
● コーカサス戦争。
● 5〜9月、ロシア・ハンガリー戦争でロシア帝国が勝利。1848年10月3日に始まった「ハンガリー独立戦争」に、オーストリア皇帝の要請により14万人で出撃した戦争。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
◆ 母方祖父ヴァシリー、東シベリア、キレンスクで誕生
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● 10月、クリミア戦争勃発。ロシアと同盟国(フランス、イギリス、オスマン、サルディーニャ)の戦い。戦場はクリミア半島、バルカン半島、黒海、バルト海、太平洋上などに及び、1856年3月まで2年5か月間継続。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● クリミア戦争。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● クリミア戦争。
● 3月2日、ロシア皇帝ニコライ1世、47歳で崩御
● 3月2日、長男のアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ[1818-1881]がロシア皇帝に即位。36歳でアレクサンドルU世に。
● 9月、セヴァストポリ要塞が陥落
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● 3月、クリミア戦争でロシア帝国が敗北。パリ条約により、ロシアはベッサラビア南部の領土をモルダヴィアに返還したほか、オスマン帝国内キリスト教徒の保護要求を取り下げ、干渉を停止。
● 3月、パリ条約締結
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
◆ 曽祖父ピョートル、一家でカザンに転居
◆ 祖父ボレスラフ、第1カザン・ギムナジウムに編入
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● アイグン条約締結。清国との東部国境をアムール川沿いに決定
● ハバロフスク建設開始
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● オデッサでポグロム発生。ギリシャ人によるユダヤ人の虐殺
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● 北京条約締結。ウスリー地方がロシア帝国に割譲
● ウラジオストク建設開始
◆ 祖父ボレスラフ、第1カザン・ギムナジウム在学中に革命結社「土地と自由」の幹部らと交流。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
● ロシア帝国政府、農奴制廃止。ウクライナ人の一部がコーカサス地方、シベリア地方、沿海州へ移動
◆ 祖父ボレスラフ、モスクワに行き、ニジニ・ノヴゴロド鉄道の管理に従事
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
◆ 祖父ボレスラフ、ポーランド蜂起に参加
● 1月22日、ポーランド蜂起、勃発。ポーランド、リトアニア、ベラルーシ、右岸ウクライナ(ウクライナ西部)の領土で起きたポーランド民族解放運動。
● コーカサス戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
◆ 祖父ボレスラフ、ヴァルバラ・ガヴリロヴナ・シャポシニコワらと共に、のちにパリ・コミューンの英雄となる革命家ヤロスラフ・ドンブロフスキーの脱獄に関与
● ロシア・コーカンド戦争。
● 4月11日、ポーランド蜂起、ロシア帝国により鎮圧。
● 5月21日、コーカサス戦争でロシア帝国が勝利。
◆ 秋、祖父ボレスラフ、ヴァルバラと共にカザンに帰還
◆ 母方祖父ヴァシリー、キレンスクの約400キロ東のボダイボに転居。ボダイボは当時「ゴールドラッシュ」に沸いていました
◆ 母方祖父ヴァシリー、ボダイボ、レナ川の金採掘場の管理事務所に事務員として就職
● ロシア・コーカンド戦争。
● ロシア・コーカンド戦争。
◆ 祖父ボレスラフ、皇帝アレクサンドルU世暗殺未遂事件の共謀者ヤクブ・ポプワフスキーを匿った容疑でカザンで逮捕、モスクワに護送され、政治犯としてペトロパブロフスク要塞に収監(ポプワフスキーはショスタコーヴィチ研究者クシシュトフ・メイエルの祖先)。取り調べの際に1863年の革命家ドンブロフスキー脱獄幇助事件に関わっていたことが発覚
◆ 9月24日、祖父ボレスラフ、最高裁で強制労働の判決ののち、シベリアのノヴォシビリスクの北東約320kmのところにあるマリインスクへの居住という強制措置に減刑
◆ 祖父ボレスラフ、マリインスク居住開始
◆ 祖父ボレスラフ、ポーランド人とロシア人による蜂起を企てた容疑で裁判にかけられることになり、ノヴォシビリスクの西約600kmのオムスクに移送
◆ 祖父ボレスラフ、オムスクでの裁判により、指定居住地がマリインスクからトムスクに変更。トムスクはノヴォシビリスクの北東約210kmのところにある皇帝ボリス・ゴドゥノフの創った町
◆ 春、祖父ボレスラフ、トムスク居住開始。ベレストフ将軍の推薦でトムスク州政府の事務職に採用
● ロシア・コーカンド戦争。
● 3月、ロシア帝国、アラスカ(約160万㎢)をアメリカに720万ドル(現在換算で約1億3000万ドル)で売却。植民地収益が少なく防衛費ばかりかかるため、1859年に打診していたものの南北戦争で交渉が遅延。
● 中央アジアのサマルカンド包囲戦でロシア帝国が勝利。これによりブハラ・ハン国(現ウズベキスタンの一部)は1873年にロシアの保護国となります。当時のブハラ・ハン国の人口は約120万でしたが、うち約20万人が奴隷化されたペルシャ人で、ロシア人も多数おり、ロシアはこれを解放。
◆ 祖父ボレスラフ、ヴァルヴァラ・ガヴリロヴナ・シャポシニコワと結婚。トムスクで2人の子供が誕生
◆ 曽祖父ピョートル、エカテリンブルクで死去
● オデッサでポグロム発生。ギリシャ人を中心にウクライナ人も加わってユダヤ人を虐殺
◆ 祖父ボレスラフ、国家犯罪人ピョートル・ウスペンスキーとの交流が発覚したため指定居住地が変更。トムスクの北西約340kmのナリムに移ります
◆ 祖父ボレスラフ、ナリムに居住開始。同地では5人の子供が誕生し計7人に。ボレスラフは狩猟や漁に従事し、ヴァルヴァラは菜園を営んだほか、蜂蜜や酒を作って売り、パンも焼いていました
● 中央アジアのヒヴァ戦争でロシア帝国が勝利。ヒヴァ・ハン国(現ウズベキスタンの一部)はロシアの保護国となり、220万ルーブルの賠償金の支払いと外交権の放棄、ロシア船舶の優先通行権が求められたほか、奴隷制度の廃止も実施され、奴隷化されていた約4万人のペルシャ人俘虜や多くのロシア人を解放。
● ロシア帝国、徴兵制度を導入
◆ 10月11日、父ドミトリー、ロシア帝国、シベリア、トムスクのナリムで誕生。両親の強制移住先でした
◆ 祖父ボレスラフ、政治経済、地理、植物学、会計学を勉強。石炭や金の鉱脈があるという情報を確かめるために、ヴァシュガン川とチズハプカ川を訪れて調査し、ナリュムスコエ地方に関する論文を執筆
◆ 4月、祖父ボレスラフ、トムスクに戻ることが許されます
◆ 祖父ボレスラフ、ペトロフ・ミハイロフ商会で会計士として働き、同時にトムスク市議会の公選議員、町議会議員として地方行政に参画し活動
● 4月24日、第10次露土戦争(1877-1878)、勃発。戦場はモルダヴィア、ワラキア、アルメニア、カフカース、バルカン半島。
◆ 3月10日、母ソフィア、シベリアのボダイボで誕生。6人兄弟の3番目
● 3月3日、第10次露土戦争(1877-1878)でロシア帝国側が勝利。ロシア軍約33万5千人とルーマニア軍約6万人、ブルガリア軍約4万人、セルビア軍約8万2千人、モンテネグロ軍約2万5千人(約17万人死傷)に対し、オスマン軍約28万1千人(約12万人死傷、俘虜約11万3千人)。サン・ステファノ条約により、オスマン帝国カルス州とバトゥム州がロシアに割譲されたほか、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアがオスマン帝国から独立。
● 3月13日、ロシア帝国皇帝アレクサンドル2世、サンクトペテルブルクで暗殺。ポーランド人のイグナツィ・フリニェヴィエツキが手投げ爆弾を投じて殺害したものですが、威力が大き過ぎてフリニェヴィエツキ本人も爆発の影響で数時間後に死亡しています
● 反ユダヤ主義の新聞が、皇帝暗殺はユダヤ人によるものと虚偽の報道をおこなったことで、ユダヤ人から盗んでも罰せられないという偽情報も蔓延
● 4月3日、アレクサンドル2世暗殺事件の首謀者、ロシア人のアンドレイ・ジェリャーボフと、ユダヤ系ロシア人のソフィア・ペロフスカヤらが処刑
● 4月15〜17日、ロシア帝国、ウクライナのエリザヴェトグラードでポグロム(ユダヤ人迫害)発生。アレクサンドル2世暗殺事件がユダヤ人によるものという煽情的に誇張された報道により、ユダヤ人の経営する商店や飲食店がウクライナ人たちに略奪されたほか、傷害事件も多発。近郊のウクライナ農民が参加して略奪が激化すると、ロシア帝国政府により陸軍が派遣されて鎮圧。以後、ウクライナとその周辺では、翌年まで反ユダヤ主義的な略奪事件が続発。ロシア帝国全土では、ウクライナを中心に1884年までポグロムが散発的に継続し、事件の数は200を超え大勢の犠牲者も出ています。
● 3月13日、長男のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ[1845-1894]がロシア皇帝に即位。36歳でアレクサンドルV世に。
● ウクライナとその周辺で反ユダヤ主義的な略奪事件が続発
● ロシア帝国、沿アムール総督府を設置
● オデッサでポグロム発生
◆ 祖父ボレスラフ、イルクーツクのシベリア貿易銀行の地方支店のマネージャーに就任
● 5月、ロシア皇帝アレクサンドルV世暗殺計画が秘密警察(オフラーナ)により露見。レーニンの実兄アレクサンドル・ウリヤノフら5名が絞首刑となり、実刑
◆ 母方祖父ヴァシリー、ボダイボ、レナ川の金採掘場の管理事務所の所長に昇格。労働者のために保険や医療を導入し、暖かいバラックを建設。妻アレクサンドラ・ペトロブナ・コクリナは労働者の子供たちのための学校を開設し、ボダイボでアマチュア・オーケストラを組織
◆ 母ソフィア、イルクーツク高等女学校に入学
● ロシア帝国で飢饉
● ロシア帝国でコレラが流行
◆ 祖父ボレスラフ、世襲名誉市民となり居住の自由を与えられますが、シベリアにとどまります
● ロシア帝国で飢饉
● ロシア帝国でコレラが流行
● 1月、露仏同盟締結
● 10月20日、ロシア皇帝アレクサンドルV世、49歳で崩御
● 10月20日、長男のニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ[1868-1918]がロシア皇帝に即位。26歳でニコライU世に。
◆ 父ドミトリー、イルクーツクの実家を出てサンクトペテルブルクに転居
◆ 母ソフィア、イルクーツク高等女学校を卒業。イルクーツクでピアニスト、合唱指揮者として活動
◆ 父ドミトリー、サンクトペテルブルク大学に入学(物理数学部自然学科)
◆ 母ソフィア、一家のクリミアへの転居を機に、兄の住んでいるサンクトペテルブルクに妹と共に転居
◆ 母ソフィア、サンクトペテルブルク音楽院に入学、S.A.マロゼモワ、A.A.ロザノワに師事。シベリア生まれで音楽愛好家のドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチと知り合い交際
◆ 母方祖父ヴァシリー、管理事務所の所長を辞任し、クリミアに転居
◆ 父ドミトリー、サンクトペテルブルク大学卒業
◆ 父ドミトリー、化学者ドミトリー・メンデレーエフ[1834-1907]が創設して間もない度量衡局に採用
● オデッサでポグロム発生
◆ 祖父ボレスラフ、イルクーツク市長に選出(1903年まで)
◆ 父ドミトリー、度量衡局の検証主任に昇格
◆ 2月、母ソフィア、父ドミトリーと結婚
◆ 10月、姉マリア・ドミトリエヴナ・ショスタコーヴィチ(フレデリクス)[1903-1973 ピアニスト]、誕生
● 4月、ロシア帝国領キシニョフ(ウクライナの西隣モルドバのキシナウ)で、約50人のユダヤ人がウクライナ人らにより虐殺されるポグロムが発生。キシニョフはオデッサの西約150キロのところにある中規模の都市で、オデッサのユダヤ人出版関係者たちは事件について記した出版物を各国語に翻訳してオデッサの港と鉄道駅から世界に向けて送りだします
● 2月、日露戦争開戦
◆ 1月22日、父ドミトリー、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」のデモ隊に参加
◆ 母方祖父ヴァシリー、妻アレクサンドラが亡くなったため、ボダイボに帰還
● ロシア帝国で飢饉発生
● 4月、ウクライナのエリザヴェトグラードでポグロム発生
● 5月、ウクライナのキエフ、シポラ、アナニフ、ワシリコフ、コノトプでポグロムが発生。以後半年の間に、ウクライナとウクライナ周辺の160の場所でポグロムが発生し、少なくとも3千人のユダヤ人が虐殺されています
● 9月、「日露戦争」終結。ポーツマス講和条約により、日本は樺太の南半分を取得したほか、朝鮮半島権益、大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順〜長春間支線の租借権も獲得
● 10月、ロシア帝国全土でゼネスト
● 10〜11月、ウクライナのキエフでポグロムが発生。約100人のユダヤ人が虐殺され、少なくとも300名が重傷を負い、1,000万〜4,000万ルーブルの財産が略奪・破壊
● オデッサで大規模なポグロム発生。当時のオデッサの識字率は約4割で、裕福なユダヤ人との生活水準の差には大きなものがありました
● 11月、キエフで軍隊が蜂起
● 12月、モスクワで武装蜂起
ロシア帝国 [1906-1917] (0〜11歳)
◆=ショスタコーヴィチ関連 ●=社会関連 ★=区切り
◆ 9月25日、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ、ロシア帝国首都、サンクトペテルブルク、ポドルスカヤ通り2番地で誕生。建物は元素周期表で有名なメンデレーエフ[1834-1907]が、市の度量衡局のために賃借していた物件で、ショスタコーヴィチ家では頻繁に両親や両親の友人たちによる演奏がおこなわれていました。
ドミトリーの名付け親は有名な児童文学作家のクラウディア・ヴラジミロヴナ・ルカシェヴィチ[1859-1937]。ルカシェヴィチは1885年から1890年にかけて夫の仕事の都合でイルクーツクに滞在し、そこで創作しながら教育者としても活動。ショスタコーヴィチの父ドミトリーと母ソフィアも1880年代から90年代までイルクーツクに居住。
◆ ニコラエフスカヤ通りの物件の5階に転居
◆ 父ドミトリー、度量衡局検証室長に就任
● ロシア帝国で飢饉、農村部中心に人口の約22%が飢餓状態に
● 6月、ロシア帝国領ベロストーク(ポーランドのビャウィストク)でポグロム発生。ポーランド人らによりユダヤ人80人が虐殺
● 7月、サンクトペテルブルク近郊のクロンシュタットで武装蜂起
◆ 2月、父ドミトリーの上司であるメンデレーエフ局長が死去
◆ 父ドミトリー、度量衡局を退職し、レンネンカンプ地所の泥炭採取業を監督する総支配人に就任。高給だったため、ショスタコーヴィチ家は、夏にはサンクトペテルブルク郊外のラドガ湖畔、イリノフカで休暇を過ごすようになります
● 6月、ロシア第一革命、ロシア帝国政府に鎮圧されて終結
● ロシア帝国で飢饉発生
● ロシア帝国と大英帝国の間で英露協商が締結。100年近く続いたロシア帝国と大英帝国の中央アジア地域での地政学的対立「グレート・ゲーム」が終了
◆ 8月21日、妹ゾーヤ・ドミトリエヴナ・ショスタコーヴィチ(フルシチョワ)[1908-1990]、誕生
● サンクトペテルブルクの実業家や貴族が所有するレナ金鉱組合が一帯の鉱山を買収し、ロンドン、パリ、サンクトペテルブルクでも株式の取引が開始
◆ 母方祖父ヴァシリー、死去
● 4月17日、レナ川虐殺事件発生。イギリス系企業「レナ金鉱株式会社」の鉱山労働者のストライキが3千人の規模に達したため、ロシア帝国軍がボダイボとキレンスクに派兵され労働者に発砲、170人を殺害し、200人以上を負傷させてストライキを終わらせた事件。株主にはロシア帝国の王室や政治家、官僚が名を連ねていました。これにより抗議ストライキが全国に波及
◆ 父ドミトリー、軍需産業に投資する会社に管理職として転職
● 7月、金本位制の停止
● 8月、ドイツがロシアに宣戦布告。ロシア帝国が第1次大戦に参戦
● 8月、サンクトペテルブルクがペトログラードに改名
● 8月、ドイツがオスマン帝国に巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウを売却。ドイツ人乗員はそのまま残り、ロシア攻撃に向けて待機
◆ 春、初めてのオペラ鑑賞。「サルタン皇帝の物語」
◆ 夏、母によるピアノのレッスン開始
◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウムに入学
◆ ピアノ曲「兵士」
● ロシア帝国、第1次大戦継続
◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウム在学
◆ グリャッセル音楽学校に入学
● 7月、中央アジアで民族主義者の反乱
● ロシア帝国、第1次大戦継続
◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウム在学
◆ グリャッセル音楽学校在学
◆ 3月、「2月革命」の犠牲者184名を追悼するペトログラード市民約1万人が「同志は倒れぬ」を唱和する葬送行進に参加。この経験をもとに「革命の犠牲に捧げる葬送行進曲」を作曲。1938年の映画音楽「偉大なる市民」のラストを飾る曲としても使用
● 3月8日(ユリウス暦:2月23日)、「2月革命」がペトログラードで勃発。市民革命
● 3月12日、ロシア臨時政府、ペトログラードで樹立。ロシア社会民主労働党内のメンシェヴィキ主導による政府。ニコライ2世退位。ロシア帝国崩壊
● 3月14日、ウクライナ中央議会成立
● 6月、第1回全ウクライナ人極東会議が開催
● 7月17日、「7月蜂起」。ペトログラードでレーニン率いる約50万人のデモ隊が行進したため、ケレンスキー率いるロシア臨時政府が数千人の警察官と兵士を派遣して鎮圧
● 11月6日、「10月革命」がペトログラードで勃発
レーニン体制 [1917-1924] (11〜17歳)
◆ 父ドミトリー、「10月革命」後の産業国有化に際し、国営企業に就職。ほどなく度量衡局に戻り、副局長に就任
◆ 「10月革命」後、ソヴィエト政府が紙幣を乱発したおかげでハイパーインフレが引き起こされ、ショスタコーヴィチ家では使用人を解雇
◆ ショスタコーヴィチ家ではクリミアのアルシタの不動産を売却することでハイパーインフレに対応
● 11月7日(ユリウス暦:10月25日)、10月革命。ロシア社会民主労働党内のボリシェヴィキ主導による「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(RSFSR、以下、ソヴィエトと略)」政権樹立
● 11月、ドイツ帝国とソヴィエトが停戦協定
● 11月、ウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)、成立。1920年11月まで存在。公用語はウクライナ語。反ソヴィエト派
● 12月、ウクライナ=ソヴィエト戦争勃発。ソヴィエト側は内戦と第1次大戦との同時進行
● 12月、ブレスト・リトフスクで講和条約締結に向けての交渉が開始。ドイツは引き延ばしを図り、ソヴィエト側は、推進派のレーニンと打ち切り派のトロツキーが対立するなど交渉は難航
● 12月、ウクライナ人民共和国(首都ハルキウ/ハリコフ)、成立。1918年3月まで4か月間存在。公用語はウクライナ語とロシア語。親ソヴィエト派
● 12月16日、婚姻解消令
◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウム在学
◆ 第13中学校に転校
◆ グリャッセル音楽学校を退学
◆ シンガリョーフとココーシキンに捧げる葬送行進曲
● 1月、立憲民主党幹部ので元ロシア臨時政府閣僚のシンガリョーフとココーシキンが水兵らによるリンチで殺害
● 2月9日、ブレスト=リトフスク条約により、西ウクライナがドイツの保護領に。 中央同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ブルガリア)とウクライナ人民共和国西部の中央議会が単独講和。西ウクライナの中央議会が、ドイツとオーストリア=ハンガリーに穀物100万トンを提供することでソヴィエトから守られるという安全保障条約
● 2月18日、ブレスト・リトフスク条約により、西ウクライナを保護領としたドイツが、ソヴィエトとの停戦協定を一方的に破棄、西ウクライナ軍と共に、ソヴィエトを攻撃。レーニンは講和条約締結を決断
● 3月3日、ブレスト・リトフスク条約。中央同盟国とソヴィエトが単独講和。この条約により、ソヴィエトは第1次大戦から離脱し、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナなどの権利を放棄しドイツに割譲
● 4月29日、ウクライナでクーデター発生。ドイツ占領軍の支援を受けて、スコロパドスキーが政権を掌握。ドイツ軍がウクライナ中央議会を排除したため、ウクライナ人民共和国は独裁国家化。スコロパドフスキーはロシア帝国時代の将軍でウクライナの地主。極右のスコロパドフスキーは、首都キエフを反ユダヤ主義者の拠点としたため、ロシア全土から反ユダヤ主義政治家や軍人たちが結集
● 5月17日、「ロシア内戦」勃発。チェコスロヴァキア軍団の反乱。ソヴィエト当局による武装解除に反発した約5万人規模のチェコスロヴァキア人部隊によるもの。ヴォルガ、ウラル、シベリア、極東で蜂起
● 6月、チェコスロヴァキア軍団がサマーラを占領し、「憲法制定議会議員委員会」を設立
● 8月、「シベリア出兵」。チェコスロヴァキア軍団の救出を名目とし、白軍と共に赤軍と戦う部隊を日本、アメリカ、イギリス、フランスなどが極東のウラジオストクに派兵した「シベリア干渉戦争」勃発
● 9月16日、家族法成立
● 10月、西ウクライナ人民共和国(首都リヴィウ/リヴォフ)、成立。1919年1月まで存在。公用語はウクライナ語。反ソヴィエト派
● 11月3日、オムスクで「臨時全ロシア政府」が樹立。誕生間もないシベリア共和国を吸収。イギリスの後援による反ソヴィエト政権
● 11月3日、ドイツで革命が勃発。ドイツ帝国の崩壊
● 11月11日、ポーランド独立宣言
● 11月13日、中央同盟国の降伏により、ソヴィエトがブレスト=リトフスク条約を破棄
● 11月、「ウクライナ・ポーランド戦争」勃発。西ウクライナの独立宣言を受けて、ポーランドがガリツィア(ウクライナ南西部)に侵攻。フランスがポーランドを支援
◆ 第13中学校に転校在学
◆ 疎開地レスノエ(リトアニア近くの海岸)のペンションに3週間滞在。10歳のナターリャ・クーベとクルイローフの2つの寓話を演じ合うなどして親交(翌年作曲)
◆ ペトログラード音楽院に入学。和声と管弦楽法をシテインベルクに、対位法をソコロフに師事したほか、指揮も勉強。入学の際、院長のグラズノフの前で「N.K.(ナターリャ・クーベ)に捧げる前奏曲」を演奏。
◆ スケルツォ第1番(管弦楽版)
◆ 祖父ボレスラフ、イルクーツクで死去
◆ クレンペラーの指揮でベートーヴェンの交響曲第9番を鑑賞。クレンペラーはソ連に数多く客演。ショスタコーヴィチはのちにピアノで交響曲第4番を披露
● 1月、ウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)が、西ウクライナ人民共和国を併合
● 2月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」勃発。「ソヴィエト&ウクライナ人民共和国(首都ハルキウ/ハリコフ)」と、「ポーランド&ウクライナ人民共和国(首都キエフ/キーウ)」の戦争。ソヴィエト側は「ロシア内戦」、「シベリア干渉戦争」との同時進行
● 3月、レーニンがポグロム反対を表明
● 6〜10月、キエフ・ポグロム発生。白軍(白衛軍)の義勇部隊による大規模なポグロム。白軍司令部は非難するものの義勇部隊はそのまま継続。周辺にも拡大し、1921年にかけてウクライナで合計1,326件のポグロムが発生し、少なくとも3万人から7万人以上のユダヤ人が虐殺され、約50万人のユダヤ人が家を失っています
● 7月、「ウクライナ・ポーランド戦争」の終結。ポーランドが勝利
● 10月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」でポーランド側のウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)の軍でチフスが大流行し、兵力の70%を喪失。ウクライナ民族主義者、シモン・ペトリューラ大統領はポーランドに亡命
● 12月、ウクライナの大規模なポグロムに抗議するデモがニューヨークで実施。デモではウクライナのユダヤ人犠牲者は12万人に達したと非難
● 「シベリア干渉戦争」継続
● 「ロシア内戦」継続
◆ ペトログラード音楽院ピアノ科でニコラーエフに師事。ユージナ[1899-1970]やソフロニツキー[1901-1961]がクラスに在籍
◆ 8つの前奏曲
◆ メヌエット
◆ 前奏曲と間奏曲
◆ ムルジルカ
◆ クルイローフの2つの寓話
● 4月、ワルシャワ条約調印。ポーランドとウクライナ人民共和国(首都キエフ)は、ズブルチ川を両国間の国境とする事を決定。これによりガリツィア地方東部をポーランドが領有。同地に住むウクライナ人が失望
● 7月、「ウクライナ軍事組織」がプラハで結成。メンバーは、ウクライナ・ガリツィア軍の兵士等。テロ行為を推奨し、ポーランドとウクライナの要人を何度も暗殺したほか、詩人などの有名人も殺害。爆弾テロや交通機関の破壊、郵便局強盗、警察署の爆破、通信網の破壊などを実施
● 「ソヴィエト・ポーランド戦争」継続
● 「シベリア干渉戦争」継続
● 「ロシア内戦」継続
◆ ペトログラード音楽院在学
◆ 5つの前奏曲
◆ R=コルサコフ「私は洞窟で待っていた」をオーケストレーション
◆ シューベルト:軍隊行進曲のオーケストレーション
◆ シューマン:東洋の絵のオーケストレーション
● 3月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」終結。リガ平和条約締結。ポーランド側の勝利
● 3月、新経済政策「ネップ」開始
● 10月13日、カルス条約により、1878年にオスマン帝国から割譲されたカルス州とバトゥム州がオスマン帝国に返還
● 10月、ソヴィエト政府により、クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国が設立。26,860平方キロメートル、人口は約72万人で、首都はシンフェロポリ。自治共和国内では、20の居住区別の自治もおこなわれ、1930年代には、6地区がクリミア・タタール人、2地区がドイツ人、2地区がユダヤ人、1地区がウクライナ人という構成。それぞれの居住区での活動が成功し、1937年には、クリミアは先進工業農民国家に変貌したと評されてもいます。ユダヤ人の多く携わる金融、貿易、職人という職業は、ソヴィエトではブルジョアの仕事として非難の対象になっており、当時約65,000人いたクリミアのユダヤ人のうち、約20,000人が集団農業に転業
● 11月、ソヴィエト政府、1万分の1の通貨切り下げを実施
● 「シベリア干渉戦争」継続
● 「ロシア内戦」継続
◆ ペトログラード音楽院在学
◆ 父ドミトリー、47歳で死去
◆ 家計の為、映画館で無声映画上映に合わせて即興でピアノ演奏する仕事を開始
◆ グラズノフがショスタコーヴィチの窮状を見かねて個人的な奨学金で支援
◆ 肺リンパ腺結核に罹患し頸部リンパ節腫脹
◆ グラズノフの斡旋でクリミアのサナトリウムで療養
◆ クリミアで初ピアノ・リサイタル
◆ クリミアのサナトリウムに療養に来ていたタチアーナ・グリヴェンコと知り合い交際開始
◆ 5月、ピアノのための3つの幻想的な舞曲をフルシタツカヤ通りの学校の卒業式で初演。名づけ親ルカシェヴィチの依頼によりショスタコーヴィチが演奏。
◆ 主題と変奏(管弦楽版、Pf版)
◆ クリローフの2つの寓話(合唱・管弦楽版、Ms・Pf版)
◆ 2台のピアノのための組曲
◆ ピアノ三重奏曲第1番
◆ 初めに言葉ありき(断片。4重唱、または合唱)
● 10月、ソヴィエト政府、100分の1の通貨切り下げを実施
● 10月、「シベリア干渉戦争」終結。ソヴィエトの勝利
● 11月、「ロシア内戦」終結。ソヴィエトの勝利
● 12月、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言(以下、ソ連と略)
● 12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行
● モスクワ放送局、ラジオ放送開始。3月に完成した高さ150mの鉄塔から電波を送信。
● 12月30日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国、ソ連に参加
◆ ペトログラード音楽院在学
◆ ピアノのための7つのフーガ(未完)。ロ短調ミサの引用など含む作品
◆ 12月、バレエ「人魚姫」の作曲を中止。1926年にスコアを破棄
● 3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握
● 11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加
● ソ連政府、コレニザーツィヤ(現地化)政策の実施を共産党大会で決定。これにより、ロシア語以外の地区における摩擦や緊張を和らげ、政治や行政の円滑な運用を想定
◆ ペトログラード音楽院在学
● 1月21日、レーニン、死去
スターリン体制T(大粛清前) [1924-1936] (17〜29歳)
◆ レニングラード音楽院在学
◆ スケルツォ第2番(管弦楽版→交響曲第1番の最初の第3楽章、Pf版)
◆ チェロとピアノのための3つの小品
● 1月22日、スターリンが最高指導者に選出
● 1月、ソ連憲法制定
● 1月、ペトログラード、レニングラードに改名
● 3月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソヴィエト以後の切り下げは、これで500億分の1になった計算
● 2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加
● 8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の酒類販売禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断
● ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減
◆ レニングラード音楽院卒業
◆ レニングラード音楽院大学院に進学
◆ ◆ 交響曲第1番作曲
◆ 弦楽八重奏のための前奏曲とスケルツォ
● 1月、ソ連労働者階級ユダヤ人農業組織化協会設立。ウクライナへのユダヤ人入植を奨励・支援
◆ レニングラード音楽院大学院在学
◆ 5月、交響曲第1番初演成功
◆ 夏、恋人のタチアーナ・グリヴェンコと共に黒海リゾートに数か月滞在
◆ ピアノ・ソナタ第1番
◆ レニングラード音楽院大学院在学
◆ 第一回ショパン・コンクールにソ連代表者としてオボーリンと共に選出。オボーリン第1位、ショスタコーヴィチ特別賞
◆ 交響曲第2番「10月革命に捧ぐ」
◆ 弦楽八重奏のための2つの小品
◆ ピアノのための10の格言集
◆ レニングラード音楽院大学院在学
◆ ニーナ・ワルザールと交際開始
◆ オペラ「鼻」
◆ タヒチ・トロット
◆ 吹奏楽のためのスカルラッティの2つの小品
● 第1次5か年計画(スターリン体制の本格始動)
◆ レニングラード音楽院大学院卒業
◆ メイエルホリド劇場音楽部長(3か月間)
◆ 交響曲第3番「メーデー」(合唱・管弦楽版、独唱・Pf版)
◆ 劇音楽「南京虫」
◆ 同「射撃」
◆ 映画音楽「新バビロン」
◆ E.ドレッセルのオペラ『コロンブス』ための2つの小品(管弦楽)
● 2月、「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」がウィーンで結成。反ポーランド、反ソ連の組織で、当初は要人暗殺などを実施
● 世界大恐慌
◆ タチアーナ・グリヴェンコの婚約を聞きレニングラードに来るよう懇願
◆ バレエ「黄金時代」
◆ 劇音楽「処女地」
◆ ストラヴィンスキー「詩篇交響曲」(2台ピアノ編曲)
◆ タチアーナ・グリヴェンコが結婚
◆ タチアーナに対して、夫と別れてレニングラードに来るよう懇願
◆ 弦楽四重奏のための2つの小品
◆ バレエ「ボルト」
◆ 映画音楽「ひとり」
◆ 同「黄金の丘」
◆ 劇音楽「条件付の死者」
◆ 4月、タチアーナ・グリヴェンコが出産。ショスタコーヴィチはタチアーナを諦めます
◆ 5月、ニーナ・ワルザール[1909-1954]と結婚。ニーナは結婚しても旧姓を使用
◆ 作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出
◆ 12月、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」完成
◆ 日本の詩人の詩による6つの歌(テノール・管弦楽、テノール・Pf)
◆ 劇音楽「ハムレット」
◆ 映画音楽「呼応計画」
● 12月、ソ連国内パスポート制度導入
◆ 24の前奏曲
◆ ピアノ協奏曲1番
◆ ヴァイオリン協奏曲1番
● ソ連・ポーランド不可侵条約締結
● カガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで多くの人が犠牲になります
◆ 1月、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」初演。大成功
◆ 春、レニングラード国際音楽祭で通訳を務めたコムソモールの20歳の学生、エレーナ・コンスタンチノフスカヤと知り合い、自宅での英語のレッスンをきっかけに交際開始
◆ 妻ニーナに対し、離婚を求める手紙を出すものの、ニーナは田舎に行き返信無し
◆ 8月、妻ニーナから離婚の申し出
◆ レニングラード市の区議会議員に選出
◆ マクベス夫人が興行的に大成功し印税収入でサッカーチームに長期同行開始
◆ チェロ・ソナタ
◆ ジャズ組曲1番
◆ 映画音楽「僧侶と労働者バルダの物語」
◆ 同「愛と憎しみ」
◆ 劇音楽「人間喜劇」
◆ 春、妻ニーナと離婚手続きを開始するものの土壇場で中止
◆ ニーナとよりを戻します
◆ バレエ「明るい小川」
◆ 映画音楽「マキシムの少年時代」
◆ 同「幼なじみ」
◆ 1〜2月、プラウダ批判でマクベス夫人の評価が一転
◆ 明るい小川も批判
◆ 5月、長女ガリーナ誕生
◆ 5月、交響曲第4番完成
◆ 劇音楽「スペインに敬礼」
● 4月、ソ連政府、1ルーブル=4.25フランス・フランに設定。フランス・フランの切り下げにより
スターリン体制U(大粛清以降) [1936-1953] (29〜46歳)
◆ 9月、姉マリアの夫で物理学者のフセヴォロド・フレデリクスが告発され、NKVDにより逮捕。10年の刑となりコミ共和国で技術者として強制労働
◆ 12月、交響曲第4番リハーサル中止、初演取りやめ
◆ プーシキンの詩による4つのロマンス
● 8月、ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、2年間で60万人以上とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります
● 11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化
◆ レニングラード音楽院講師
◆ 11月、交響曲第5番初演大成功
◆ 国歌「インターナショナル」のオーケストレーション
◆ 映画音楽「マキシムの帰還」
◆ 同「ヴォロチェーエフの日々」
● 大粛清継続
● モスクワ放送でテレビ放送開始
● ソ連政府、通貨の基準を仏フランから米ドルに変更(フランスの金本位制離脱の為)。対米ドル相場は1米ドル=5.3ルーブルと決定
◆ 5月10日、長男マクシム誕生
◆ 弦楽四重奏曲第1番
◆ ジャズ組曲2番
◆ 映画音楽「ヴィボルグ地区」
◆ 同「友人」
◆ 同「偉大なる市民」
◆ 同「銃を持つ人」
● 8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任し、エジョフの権限を奪うことで大粛清終了。ベリヤはスターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身
11月には内務人民委員に選出
◆ レニングラード音楽院教授に昇格
◆ レーニン交響曲(未完、素材は6番に転用)
◆ 交響曲第6番
◆ アニメ映画音楽「愚かな小ねずみ」
◆ フィンランドの主題による組曲(7つのフィンランド民謡)
● 8月、モスクワで独ソ不可侵条約締結(秘密議定書では東欧分割も策定)
● 9月、ドイツとスロヴァキアがポーランドに侵攻(第2次大戦開戦)
● 9月、ソ連がポーランドに侵攻
● 10月、ポーランド降伏。ドイツとソ連に分割占領。。ソ連はウクライナとベラルーシに、領有したポーランドを割り振り、1941年7月のバルバロッサ作戦敗退までの約2年間、領有を継続
● 11月、ソ連がフィンランドに侵攻
● クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国の人口は国勢調査により約112万6千人と発表。内訳は、ロシア人が49.6%(約55万8千人)、クリミア・タタール人が19.4%(約21万8千人)、ウクライナ人が13.7%(約15万4千人)、ユダヤ人が5.8%(約6万5千人)、ドイツ人が4.6%(約5万2千人)等
◆ 労働赤旗勲章
◆ ピアノ五重奏曲
◆ 劇音楽「リア王」
◆ ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」(オーケストレーション)
◆ J.シュトラウス「ウィーン気質」「観光列車」(オーケストレーション)
◆ 映画音楽「コルジンキナーの冒険」
● ポーランド東部を、ソ連が領有。ポーランド東部の人口は約1,350万人
● 2月、大粛清実行責任者エジョフとその部下たちが処刑
● 2月、メイエルホリド処刑
● 3月、フィンランドが敗北し、ソ連とモスクワ平和条約に調印。約42万人が住むカレリア地方などをソ連に割譲
● 5月、ドイツがオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻
● 7月、ドイツがイギリスを攻撃
● 8月、ソ連がバルト3国を併合
● ポーランドの内務大臣暗殺により1935年から終身刑でワルシャワの刑務所で服役していたウクライナの民族主義者、ステパン・バンデラ[1909-1959]をドイツ軍が釈放。バンデラはウクライナ民族主義者組織に戻ってリーダーとなります
◆ ピアノ五重奏曲でスターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)
◆ 7月、ショスタコーヴィチ、レニングラードで交響曲第7番作曲に着手
◆ 9月、交響曲第7番第1楽章、レニングラードでスケッチ完成
◆ 9月、交響曲第7番第2楽章、レニングラードでスケッチ完成。放送で談話
◆ 9月、交響曲第7番第3楽章、レニングラードでスケッチ完成
◆ 10月、ショスタコーヴィチ家、臨時首都クイビシェフに避難
◆ 12月、交響曲第7番第4楽章スケッチ、および全体のオーケストレーション、クイビシェフで完成
◆ 12月、オペラ「賭博師」作曲開始
◆ 連隊は恐れずに歩む
◆ コミッサールの誓約
● 4月、ドイツがユーゴスラヴィアとギリシャに侵攻
● 6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「大祖国戦争」開戦
● 7月5日、バンデラ、ドイツの占領軍当局により逮捕され自宅軟禁。7月6日にベルリンのザクセンハウゼン強制収容所に送致。1944年9月に数百人のウクライナ人らと共に釈放。 終戦後はウクライナがソ連になったため戻れず、南ドイツに移住し、アメリカとイギリスの諜報機関と協力。1952年にウクライナ民族主義者組織を離れ、西ウクライナでソ連に抵抗活動を続けていたウクライナ蜂起軍の司令部と連携。1956年からはウクライナ民族主義者組織の海外での活動に協力。そして1959年10月15日にミュンヘンでKGBによって暗殺。
● 7月、1934年からレニングラード第一書記のジダーノフが同防衛委員会の責任者も兼務(1945年1月まで)
● 7月、レニングラードで食料配給制開始
● 7月、赤軍、ポーランドでドイツ軍に破れ撤収。ポーランド全土がドイツ領に
● 8月、ドイツがウクライナを占領。「帝国管区ウクライナ」とし、親衛隊が直接統治。西ウクライナでは、ナチス・ドイツを解放者として歓迎
● 9月、ウクライナの首都キエフのバビ・ヤールでユダヤ人など大量虐殺。虐殺実行部隊は約1,200人のウクライナ人と、約300人のドイツ人。29日と30日だけでキエフ市民のユダヤ人ら33,771人が殺害。その後も虐殺行為は続けられ、赤軍に解放される1943年11月までの2年間に計7〜12万人のユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ロマなどが殺害
● 9月、ドイツなどによるレニングラードへの攻撃が開始。まずドイツが食糧貯蔵庫や燃料貯蔵庫を爆撃
● 10月、レニングラードの水道、ガス、電気施設をドイツが攻撃
● 10月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約6千人
● 10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ピアニストのマリア・ユージナなどは疎開せずに活動
● 11月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約9千人
● 12月、レニングラード市民の餓死・凍死者約3万9千人
● 12月、ウクライナ民族主義者組織がウクライナで虐殺したユダヤ人の数が15万人から20万人に到達
◆ 3月、交響曲第7番、臨時首都クイビシェフで世界初演(サモスード指揮)。内外に放送
◆ 3月、交響曲第7番モスクワ初演
◆ 交響曲第7番の成功によりスターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)
◆ 6月、交響曲第7番、イギリスで西側初演
◆ 7月、交響曲第7番、アメリカ初演。以後、アメリカ各地で翌年にかけて62回演奏
◆ 8月、交響曲第7番、レニングラード初演(エリアスベルク指揮)
◆ 10月、ショスタコーヴィチ、ロシア共和国功労芸術家の称号を授与
◆ 12月、オペラ「賭博師」、全25場中8場まで作曲して断念
◆ シェイクスピアの詩による6つのロマンス
◆ 音楽舞踏劇「祖国」
◆ わがレニングラード
◆ 荘厳な行進曲
● 1月、ドイツの攻撃によりレニングラードの水道、暖房、電気が停止
● 1月、レニングラードの食料配給停止
● 1月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万7千人
● 2月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万6千人
● 4月、レニングラード市民の死者、餓死など6万4千人
● 4月、「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用
● 4月、ドイツ軍、占領下クリミアのユダヤ人ゼロを宣言。女性と子供、老人などを大量虐殺(男性の多くはソ連の兵役と労働で不在)
● 5月、レニングラード市民の死者、餓死など約5万人
● 6月、ソ連、石油パイプラインをラドガ湖の湖底に敷設しレニングラードへの供給を開始
● 6月、レニングラード市民の死者、餓死など約3万4千人
● 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃
● 10月、「ウクライナ蜂起軍」が結成。赤軍に対してもテロ活動を展開
● 「大祖国戦争」継続
◆ 妻ニーナ、レニングラード大学で物理学を研究していた学生時代の友人で、物理学者のアルチョム・アリハニアン[1908-1978]とモスクワで再会。アリハニアンは宇宙線研究のための高山での観測と研究所での実験のための共同研究者を探しており、ニーナはこれを承諾。
◆ 5月、芸術問題委員会顧問に選出
◆ 夏、妻ニーナ、アルメニアのアラガツ山、標高3,250m地点で宇宙線を調査する高地探検隊に参加。アリハニアンとティナ・アサティアニ(前年の初遠征でも活躍した女性科学者)の提案した新たな調査方法に協力し、空気シャワーの構造研究で新たな発見をおこなっています。
この驚きの出来事により、以後、ニーナはモスクワの南約2千キロのエレヴァン(とアラガツ山)に何度も長期出張して共同研究をおこない、やがて1954年12月、実験に伴う放射線障害により45歳で急死するまでの11年間、モスクワとの二重生活を送ることになります。
アリハニアンは1938年に兄と共に中性微子(ニュートリノ)に関する研究などをおこない、1941年にはそれらが評価されてスターリン賞第2席を受賞。1942年の夏には宇宙線を調査するため12名から成る遠征隊を編成して、2トンの機材と共に高山調査を開始、その成功によりこの1943年にも再遠征のための人材探しをおこなっていました。
◆ 7月、交響曲第8番第1楽章、モスクワで完成
◆ 8,9月、交響曲第8番第2〜5楽章、イヴァノヴォで作曲(モスクワの北東約200キロ)
◆ モスクワ音楽院教授
◆ 11月、交響曲第8番モスクワで初演
◆ ピアノ・ソナタ第2番
◆ 愛国歌
◆ 赤軍の歌
● 1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。市民の帰還開始
● 1月、赤軍がレニングラード包囲を突破
● 1月、赤軍によりスターリングラード解放
● 2月、レニングラードへの食料と燃料の配給再開
● 4月、ナチス・ドイツSS師団「ガリーツィエン」の募集開始。1か月半ほどでウクライナ人約8万人が集結する人気ぶり。12月から活動開始
● 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃
● 7月、ウクライナ民族主義者組織バンデラ派のミコラ・レベド率いる部隊が、ポーランドのヴォリンでポーランド人など3万5千〜6万人を虐殺し、東ガリツィアでは2万5千〜4万人を虐殺。レベドは戦後、アメリカ戦略情報局によりアメリカ本土に逃がされて放免となり1989年まで生存
● 8月、クルスクの戦いで赤軍、ドイツに勝利(モスクワの南約500キロ)
● 9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定
● 「大祖国戦争」継続
◆ 6月6日、姉マリアの夫で物理学者のフセヴォロド・フレデリクスがゴーリキー(ニジニ・ノヴゴロド)の病院で肺炎のため死去
◆ 8月、ピアノ三重奏曲第2番と弦楽四重奏曲第2番完成。三重奏曲は2月にノボシビルスクの作曲家ノヴィコフの家で就寝中に亡くなった親友ソレルチンスキーの追悼作品。四重奏曲は交響曲第8番と共通点のある作品
◆ 12月、ショスタコーヴィチ家でクリスマスツリー準備
◆ ピアノ三重奏曲2番
◆ 弦楽四重奏曲第2番
◆ 映画音楽「ゾーヤ」
◆ 音楽舞踏劇「ロシアの河」
◆ ピアノのための「フットボール」
● 1月、赤軍によりレニングラード解放。レニングラード在住市民は約60万人
● 10月、赤軍、西ウクライナを解放
● 「大祖国戦争」継続
◆ 交響曲第9番
◆ 勝利の春
◆ 映画音楽「普通の人々」
● 5月、ドイツが無条件降伏。「大祖国戦争」終結。ソ連の勝利
● 8月、日本が無条件降伏
● ウクライナ民族主義者組織によるウクライナの町や村でのゲリラ戦が開始。1950年代半ばまで10年ほど継続
◆ レーニン勲章(賞金1万ルーブル)
◆ ピアノ三重奏曲第2番でスターリン賞(第2席、賞金5万ルーブル)
◆ 弦楽四重奏曲第3番
● アメリカ戦略情報局、ウクライナ民族主義者と連携開始。現在に至ります
● アメリカ戦略情報局による「ベラドンナ作戦」、「リンクス作戦」。ウクライナ民族主義者と共同で
● 3月、チャーチル首相がアメリカ訪問中、マスコミが注視する場で「鉄のカーテン」という言葉を使って演説。「鉄のカーテン」という言葉そのものは1918年のロシアで使われ始め、ナチス・ドイツのゲッベルスも使用していましたが、政治・マスコミ向けの本格的なプロパガンダ・ツールとなるきっかけはこの時の演説でした。以後、世界の莫大な税公金が東西両陣営のプロパガンダや軍需産業に注ぎ込まれることになります
◆ 2月、ロシア共和国最高議会代議員
◆ 2月、レニングラード作曲家同盟理事会議長就任
◆ カンタータ「祖国の詩」
◆ 映画音楽「ピロゴーフ」
● 9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗
● 12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。輸出優先体制継続のため為替レートはそのまま
● アメリカ戦略情報局による「トライデント作戦」。ウクライナ民族主義者と共同で
◆ ロシア共和国人民芸術家
◆ 9月、ジダーノフ批判によりモスクワ音楽院とレニングラード音楽院を解雇
◆ ユダヤの民族詩から
◆ 映画音楽「エルベ河の邂逅」
◆ 同「若き親衛隊」
◆ 同「ミチューリン」
● 2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することを宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに影響力を持つこととなります
● 4月、ソ連作曲家同盟の第1回総会が開催。前身は「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。
◆ 3月、ソ連の科学文化使節団の一員としてニューヨークで開催された世界平和文化科学会議にゲラシモフ監督らと出席
◆ ソ連平和擁護委員会の委員に選出
◆ オラトリオ「森の歌」初演
◆ 「陽気な行進曲」
◆ タランテラ
◆ バレエ組曲1番
◆ 弦楽四重奏曲第4番
◆ 映画音楽「ベルリン陥落」
● 8月24日、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ベルギー、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルク、アイスランド、NATOに加盟(11か国)
● ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーンを開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。自国からの移民が多いイスラエルに対して大規模な支援を続けていたにも関わらず、イスラエルがアメリカ側についたため。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕
◆ 「森の歌」と「ベルリン陥落」でスターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)
◆ レールモントフ歌曲集
◆ 映画音楽「ベリンスキー」
● 3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。対米ドル相場は1米ドル=4ルーブルに決定
◆ 24の前奏曲とフーガ
◆ バレエ組曲2番
◆ 映画音楽「忘れがたき1919年」
◆ 革命詩人の詩による10の詩曲でスターリン賞(第2席、賞金5万ルーブル)
◆ 弦楽四重奏曲第5番
◆ カンタータ「わが祖国に太陽は輝く」
◆ プーシキンの詩によるモノローグ
◆ 7つの人形の踊り
◆ バレエ組曲3番
● 2月18日、ギリシャ、トルコ、NATOに加盟(13か国)
◆ 2月、友人のポーランドから来たユダヤ人作曲家ワインベルク[1919-1996]が、暗殺された演出家ミホエルスの義理の息子でもあることから「医師団陰謀事件」の余波で逮捕されたため、作曲家のニコライ・ペイコ[1916-1995]と共にワインベルクの身元が確かであることを伝えて釈放を要請する嘆願書を提出
● 3月5日、スターリン死去
● 3月5日、プロコフィエフ死去
マレンコフ体制 [1953] (46歳)
◆ ワインベルク、釈放
● 3月、マレンコフがソ連最高指導者に選出
● 6月、ベルリンで反ソ連暴動
● 7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いて国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕
フルシチョフ体制 [1953-1964] (46〜57歳)
◆ 夏〜秋、交響曲第10番作曲
◆ 12月、交響曲第10番初演
◆ バレエ組曲4番
◆ ギリシャの歌
● 9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代
● 12月、ベリヤ処刑
◆ ソ連人民芸術家
◆ 国際平和賞
◆ 交響曲第10番をめぐる3日間の公開討論会で勝利
◆ 祝典序曲
◆ 10月の夜明け
◆ 口づけを重ねた
◆ 映画音楽「団結」
◆ 劇音楽「ハムレット」
◆ 11月末、妻ニーナ、アルメニア出張中に放射線障害で入院。ほどなく昏睡状態に
◆ 12月5日、妻ニーナ、アルメニアのアルチョム・アリハニアンと共同研究で長期滞在中のエレバンで急死。ニーナとアリハニアンは1943年から共同研究をおこなっていました。なお、ニーナの死後もアリハニアンはショスタコーヴィチ家を訪れています
◆ 12月10日、妻ニーナ、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。葬儀ではポータブル・レコード・プレーヤーでショスタコーヴィチの交響曲第8番と弦楽四重奏曲が流されていました
● 2月19日、フルシチョフの独断により、ロシアとウクライナの友好を記念するものという名目でクリミア自治州の領有を、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国から、ウクライナ・ソヴィエト連邦社会主義共和国に変更
◆ 3つのヴァイオリン三重奏曲
◆ 4つのワルツ、映画音楽「馬あぶ」
◆ 母ソフィア、死去
● 5月8日、西ドイツ、NATOに加盟(14か国)
◆ 7月、32歳でコムソモール中央委員会指導者のマルガリータ・アンドレーエヴナ・カーイノワと結婚
◆ レーニン勲章(賞金1万ルーブル)受章
◆ 弦楽四重奏曲第6番
◆ スペインの歌、映画音楽「第1軍用列車」
● 2月、フルシチョフ、スターリン批判演説
● 6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動
● 10月、ハンガリー動乱
◆ 交響曲第11番「1905年」
◆ ピアノ協奏曲2番
◆ グリンカの主題による11の変奏曲
● 8月、ソ連のR-7が発射に成功。世界初の大陸間弾道弾(ICBM)
● 10月、ソ連のスプートニク1号が地球軌道に乗り人工衛星に。世界初
◆ 4月、交響曲第11番でレーニン賞
◆ 5月、プラハ、チューリヒ、ローマ、フィレンツェ、パリを旅行。パリでは芸術文化勲章のコマンドゥール勲章を授与されたほか、クリュイタンスとレコーディングも実施
◆ 6〜7月、渡英し、王立音楽アカデミー会員の称号授与式と、オックスフォード大学名誉博士号授与式に出席
◆ 9月、ウィフリ・シベリウス賞を受賞し賞金750万マルッカを獲得するものの、ショスタコーヴィチは当局の要請により賞金全額をフィンランド・ソヴィエト協会に寄付(当時は1ドル=320マルッカの固定レートなので現在価値に換算すると約1,600万円)
◆ 喜歌劇「モスクワ・チェリョームシキ」
● 3月、ブルガーニン首相辞任、フルシチョフ独裁体制確立
◆スウェーデンで開催された世界平和評議会に出席
◆プラハの春音楽祭に参加
◆ワルシャワの秋音楽祭に参加
◆ 10月、ソ連の音楽家代表団のメンバーと渡米し東海岸と西海岸各都市で演奏会開催。ハリウッドも訪問。科学アカデミー会員に選出
◆ 春〜夏、映画用にムソルグスキー「ホヴァンシチナ」をオーケストレーション
◆ 夏、チェロ協奏曲第1番を作曲。10月に初演
◆ 夏、マルガリータ・アンドレーエヴナと離婚。慰謝料で高額出費
◆ メキシコ音楽院から名誉博士号授与
● 1月、キューバ革命
● 1月、ソ連のルナ1号が太陽軌道に乗り人口惑星に。世界初
● 9月、ソ連のルナ2号が月面に到着(衝突)。世界初
◆ 3月、弦楽四重奏曲第7番作曲。亡き妻ニーナの思い出に捧げる作品
◆ 4月、ロシア連邦作曲家同盟を率いる第1書記に選出
◆ S.チョールヌイの詩による5つの風刺を作曲。テキストはこの年に出版された詩集からのもので、ロシア帝国時代末期に活躍した反体制詩人の作品
◆ 7月、弦楽四重奏曲第8番を作曲
◆ 7月、映画音楽「5日5夜」を作曲
◆ 9月、ソ連作曲家同盟統一党組織により共産党員候補に選出
◆ 9月、レニングラード・フィル西欧ツアーに同行
◆ ノヴォロシースクの鐘
◆ 左足を骨折
◆ ベルギー王立科学・文学・美術アカデミー会員
● 5月、ソ連領土内深くに侵入していたアメリカ軍のU2型高高度偵察機が、地対空ミサイルS-75によって撃墜。
◆ ネジダノヴァ通りの5部屋のアパートに転居
◆ 4月、ガガーリンが宇宙飛行中に口ずさんでいた歌はショスタコーヴィチの「祖国が聴いている」
◆ 9月、共産党に正式に入党。この年の党員数は約930万人で、成年人口の10人に1人以上という比率
◆ レニングラード音楽院教授に復帰
◆ 10月、交響曲第12番「1917年」
◆ 12月、交響曲第4番初演
● 4月、ソ連、有人宇宙飛行に成功。世界初。
● 4月、ケネディ大統領がキューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するものの失敗
● 7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定
● 8月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始
● 10月、フルシチョフ、第2次スターリン批判演説
◆ 夏、イリーナ・アントノヴナ・スピンスカヤとヴェネツィア近郊に滞在。イリーナは1935年レニングラード生まれで27歳のユダヤ系ポーランド系ロシア人で出版社勤務の人妻
◆ 夏、イリーナと共にイリーナの叔母の家のあるリャザンに滞在
◆ 8〜9月、エジンバラ音楽祭に出演。ショスタコーヴィチ特集が組まれ30近い作品が演奏
◆ 11月、イリーナの離婚が成立
◆ 12月、イリーナと結婚
◆ ソ連最高会議代議員
◆ 右手麻痺で何度も入院
◆ 交響曲第13番「バビ・ヤール」
◆ バレエ音楽「お嬢様とならず者」
◆ ムソルグスキー「死の歌と踊り」(オーケストレーション)
◆ 交響曲第13番変ロ短調作曲
● 10月、キューバ危機
◆ オペラ「カテリーナ・イズマイロヴァ」
◆ ロシアとキルギスの主題による序曲
◆ シューマン:チェロ協奏曲(オーケストレーション)
◆ 3月、モスクワで英国音楽祭開催
ブレジネフ体制 [1964-1975] (58〜68歳)
◆ 弦楽四重奏曲第9番
◆ 弦楽四重奏曲第10番
◆ カンタータ「ステパン・ラージンの処刑」
◆ 映画音楽「ハムレット」
◆ 映画音楽「生涯のような1年」
◆ 心臓病で入院
◆ ポリオの脊髄炎と診断
● ソ連、ベトナム戦争で北ベトナムを支援
◆ レーニン勲章(賞金1万ルーブル)
◆ 社会主義労働英雄
◆ ロイヤル・フィルハーモニー協会金メダル
◆ 心筋梗塞で入院
◆ 弦楽四重奏曲第11番
◆ チェロ協奏曲2番
● 2月、ソ連のルナ9号が月面に軟着陸。世界初
◆ ヴァイオリン協奏曲2番
◆ 10月革命
◆ ブローク歌曲集
◆ 春よ春よ
◆ 交響的前奏曲「追悼」
◆ 映画音楽「ソフィヤ・ペロフスカヤ」
◆ 右足を骨折
◆ 「ステパン・ラージンの処刑」でソ連国家賞(賞金5千ルーブル)
◆ ラヨーク
◆ 弦楽四重奏曲第12番
◆ ヴァイオリン・ソナタ
● 8月、チェコ事件
◆ 交響曲第14番「死者の歌」
◆ ティシチェンコ:チェロ協奏曲1番(オーケストレーション)
◆ 弦楽四重奏曲第13番
◆ 忠誠
◆ ソヴィエト民警行進曲
◆ 映画音楽「リア王」
◆ 十月革命勲章
◆ 9月、心筋梗塞により入院
◆ 交響曲第15番
◆ 6つの歌
● 4月、ソ連サリュート1号が運用開始。世界初の宇宙ステーション
◆ 5月、東ドイツ友好の星金賞
◆ 7月、聖トリニティー大学名誉音楽博士
◆ スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長
● 5月、ニクソン大統領訪ソ
● 12月、ソ連マルス3号が火星に着陸。世界初
◆ レオニー・ソンニン音楽賞(賞金30万デンマーク・クローネ)
◆ 6月、米ノース・ウェスタン大学芸術名誉博士
◆ 6月、サハロフ非難書簡に署名
◆ ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長
◆ 弦楽四重奏曲第14番
◆ マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲(S、Pf)
◆ 弦楽四重奏曲第14番と男声合唱曲「忠誠」でロシア共和国グリンカ賞
◆ 10月、友人のオイストラフがアムステルダムで死去。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬
◆ 12月、イギリスの南極地名委員会が南極のアレクサンダー島(アレクサンドル1世島)の8つの半島の一つにショスタコーヴィチ半島と命名。近くにはストラヴィンスキー湾やバッハ棚氷、ベートーヴェン半島、モンテヴェルディ半島、リャードフ氷河、ブラームス湾も存在
◆ 弦楽四重奏曲第15番
◆ ミケランジェロの詩による組曲(Bs・Pf)
◆ マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲(S・Orch)
● ソ連が「ドルジバ・パイプライン」を完成。世界最大最長の石油パイプラインで、全長約8,900kmで、年間6,650万トンを輸出。北部ルートでは、ベラルーシ、ポーランド、ドイツ、ラトヴィア、リトアニアを通り、南部ルートでは、ウクライナ、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアを通過し、それぞれに通過料収入がもたらされています
◆ 4月、フランス芸術アカデミー名誉会員
◆ ミケランジェロの詩による組曲(Bs・Orch)
◆ レビャートキン大尉の4つの詩(Bs・Pf)
◆ バレエ音楽「夢想家」
◆ ムソルグスキー「蚤の歌」(オーケストレーション)
◆ 交響曲第16番(未完。スケッチ)
◆ 7月、ヴィオラ・ソナタ 完成。チェロ版も作成
◆ 7月、体調不良により入院
◆ 8月4日、再入院
◆ 8月9日、肺がんで死去
◆ 8月14日、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬
◆ カテリーナ・イズマイロヴァでシェフチェンコ国家賞
交響曲第1番
◆ 1994 マリス・ヤンソンス EMI
◆ 2005 サイモン・ラトル EMI
◆ 2015 パーヴォ・ヤルヴィ DCH(外部サイト)
交響曲第4番
◆ 1997 ベルナルト・ハイティンク Video
◆ 2009 サイモン・ラトル DCH(外部サイト)
◆ 2015 サイモン・ラトル DCH(外部サイト)
交響曲第5番
◆ 1986 セミョン・ビシュコフ PHILIPS
◆ 1993 ゲオルク・ショルティ Video
◆ 2011 佐渡裕 DCH(外部サイト)、avex
◆ 2014 トゥガン・ソヒエフ DCH(外部サイト)
◆ 2017 アンドレス・オロスコ=エストラーダ DCH(外部サイト)
◆ 2018 グスタヴォ・ドゥダメル DCH(外部サイト)
◆ 2021 ダニエーレ・ガッティ DCH(外部サイト)
交響曲第6番
◆ 2013 アンドリス・ネルソンス DCH(外部サイト)
◆ 2013 パーヴォ・ヤルヴィ DCH(外部サイト)
交響曲第7番
◆ 1946 セルジュ・チェリビダッケ URANIA
◆ 1992 マリス・ヤンソンス DCH(外部サイト)
◆ 2019 ミヒャエル・ザンデルリング DCH(外部サイト)
交響曲第8番
◆ 1990 セミョン・ビシュコフ PHILIPS
◆ 1997 クルト・ザンデルリング Video
◆ 2001 パーヴォ・ベルグルンド Testament
◆ 2010 アンドリス・ネルソンス DCH(外部サイト)
◆ 2020 キリル・ペトレンコ DCH(外部サイト)、Berlin Phil Media
交響曲第9番
◆ 2020 キリル・ペトレンコ DCH(外部サイト)、Berlin Phil Media
交響曲第10番
◆ 1966 ヘルベルト・フォン・カラヤン DG
◆ 1969 ヘルベルト・フォン・カラヤン Melodiya
◆ 1981 ヘルベルト・フォン・カラヤン DG
◆ 2008 サイモン・ラトル DCH(外部サイト)
◆ 2016 マリス・ヤンソンス DCH(外部サイト)
◆ 2021 キリル・ペトレンコ DCH(外部サイト)、Berlin Phil Media
交響曲第11番
◆ 1987 セミョン・ビシュコフ PHILIPS
◆ 2014 セミョン・ビシュコフ DCH(外部サイト)
◆ 2019 アンドリス・ネルソンス DCH(外部サイト)
交響曲第12番
◆ 2009 グスタヴォ・ドゥダメル DCH(外部サイト)
交響曲第13番
◆ 2016 ヤニック・ネゼ=セガン DCH(外部サイト)
交響曲第14番
◆ 2005 サイモン・ラトル EMI
◆ 2010 ネーメ・ヤルヴィ DCH(外部サイト)
交響曲第15番
◆ 1999 クルト・ザンデルリング BPH
◆ 2015 ベルナルト・ハイティンク DCH(外部サイト)
▶ ベルリン・フィル&HMV&BOOKS online提携ページ『ベルリン・フィル・ラウンジ』
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と首席指揮者キリル・ペトレンコによるショスタコーヴィチの交響曲第8、9、10番のボックス・セットが発売されます。2019年8月に行われたキリル・ペトレンコの首席指揮者就任公演をもって、ベルリン・フィルの新時代が始まりました。1972年生まれのペトレンコは、2006年にベルリン・フィルにデビュー。以来、目の覚めるような圧倒的演奏を聴かせ、2015年夏にサー・サイモン・ラトルの後任に選ばれました。両者のディスクとしては、ベートーヴェンやチャイコフスキーのコンサート・レパートリーの礎石となる交響曲や、フランツ・シュミットやルーディ・シュテファンといった現代において正当な評価を受けていない20世紀の作曲家の作品など、ペトレンコにとって重要なレパートリーが収録された「ファースト・エディション」に続く2作目のボックス・セットとなります。
本セットは、新型コロナウイルスのパンデミック中に行われた録音です。2020年11月2日から30日まで、フィルハーモニーは新型コロナウイルスの感染拡大に伴うドイツ連邦政府と州政府の制限措置により閉鎖されることになりました。交響曲第9番は閉鎖直前の10月31日に、そして11月13日に演奏された交響曲第8番は無観客公演となりました。閉鎖直前の公演となった2020年10月31日の公演では、この後計画されているホール閉鎖を「沈黙」で表現するために、ジョン・ケージの『4分33秒』が急遽演奏され、象徴的な公演となりました。
交響曲第8番は第2次世界大戦の最中に書かれ、悲しみと絶望、そして美しさと希望が刻印されています。ベルリン・フィルとペトレンコは観客のいないコンサート・ホールに向けて、この演奏がこの時期に人々の架け橋となることを願ってプログラムしました。ペトレンコはこの時の演奏について「ベルリン・フィルと私は、ショスタコーヴィチの交響曲を聴衆のいない会場で、それでもあらゆる聴き手に届くように演奏しました。それは特異な体験でした。」と語っています。
そして第8番とは対極にある交響曲第9番。1945年11月3日、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルにより初演。第2次世界大戦末期、ショスタコーヴィチは戦争の勝利を讃える作品を書くことを期待されていましたが、彼はこれらの主張を退け、この交響曲ではヒロイックな栄光を明確に拒否し、軽妙で人を小馬鹿にしたような異なる作品を完成させ、強い非難を受けることとなりました。
最後に、スターリンの死後、初めて書かれた交響曲第10番。スターリン時代を想起させるような抑圧的でしばしばグロテスクな音楽が続きますが、最後は希望に満ちた楽章で締めくくられます。ペトレンコはこの作品についてこう言います。「ショスタコーヴィチは、スターリンの軛から解放され、自身の創造力を再び見出したのです。長くつづいた闇に、再び光が射した瞬間でした。」
今回のリリースに際して、キリル・ペトレンコはこう語っています。「極めて限られた条件下でのみ合奏することができたパンデミック期に、私はショスタコーヴィチの音楽をかつてないほど身近に感じたのです。さらに、本盤が世に出る今、ショスタコーヴィチの音楽は、単に過去の声であるだけでなく、生々しい今日性を帯びてしまいました。ショスタコーヴィチの音楽は、とりわけ今日のような時期に、自由と民主主義の理想を信じるために必要な自信と力を私たちに与えます。彼は、私たちを勇気づけてくれるロールモデルなのです。」
本作の表紙を飾るのはドイツの写真家トーマス・デマンドの作品。無数のロッカーが壁一面に並ぶ光景は、抑圧され閉ざされた環境を象徴しており、このショスタコーヴィチの交響曲を表現しているようにも見えます。さらに、オリジナルの解説書に収録された一見美しい花々の写真にも想像力を働かせることができ、アートワークとしても充実した内容となっています。(輸入元情報)
【指揮】
◆ アーベントロート (ベートーヴェン、 シューベルト&シューマン、 ブルックナー、 ブラームス、 モーツァルト、 チャイコフスキー、 ハイドン)
◆ アルヘンタ
◆ アンセルメ
◆ エッシェンバッハ
◆ オッテルロー
◆ ガウク
◆ カラヤン
◆ クイケン
◆ クーセヴィツキー
◆ クチャル
◆ クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィル、 ベルリン・フィル、 ミュンヘン・フィル、 国立歌劇場管、レジェンダリー)
◆ クラウス
◆ クリップス
◆ クレツキ
◆ クレンペラー (VOX&ライヴ、ザルツブルク・ライヴ、VENIASボックス
◆ ゴロワノフ
◆ サヴァリッシュ
◆ シューリヒト
◆ スイトナー (ドヴォルザーク、 レジェンダリー)
◆ スラトキン(父)
◆ セル
◆ ターリヒ
◆ チェリビダッケ
◆ トスカニーニ
◆ ドラゴン
◆ ドラティ
◆ バルビローリ
◆ バーンスタイン
◆ パレー
◆ フェネル
◆ フルトヴェングラー
◆ ベーム
◆ ベイヌム
◆ マルケヴィチ
◆ ミトロプーロス
◆ メルツェンドルファー
◆ メンゲルベルク
◆ モントゥー
◆ ライトナー
◆ ラインスドルフ
◆ レーグナー (ブルックナー、 マーラー、 ヨーロッパ、 ドイツ)
◆ ロスバウト
【鍵盤楽器】
◆ ヴァレンティ (チェンバロ)
◆ ヴェデルニコフ (ピアノ)
◆ カークパトリック (チェンバロ)
◆ カサドシュ (ピアノ)
◆ キルシュネライト (ピアノ)
◆ グリンベルク (ピアノ)
◆ シュナーベル (ピアノ)
◆ ソフロニツキー (ピアノ)
◆ タマルキナ (ピアノ)
◆ タリアフェロ (ピアノ)
◆ ティッサン=ヴァランタン (ピアノ)
◆ デムス (ピアノ)
◆ ナイ (ピアノ)
◆ ニコラーエワ (ピアノ)
◆ ネイガウス父子 (ピアノ)
◆ ノヴァエス (ピアノ)
◆ ハスキル (ピアノ)
◆ フェインベルク (ピアノ)
◆ モイセイヴィチ (ピアノ)
◆ ユージナ (ピアノ)
◆ ランドフスカ (チェンバロ)
◆ ロン (ピアノ)
【弦楽器】
◆ オイストラフ (ヴァイオリン)
◆ カサド (チェロ)
◆ コーガン (ヴァイオリン)
◆ シュタルケル (チェロ)
◆ スポールディング
◆ デュ・プレ (チェロ)
◆ バルヒェット (ヴァイオリン)
◆ フランチェスカッティ (ヴァイオリン)
◆ ヘムシング (ヴァイオリン)
◆ ヤニグロ (チェロ)
◆ リッチ (ヴァイオリン)
◆ レビン (ヴァイオリン)
◆ ロストロポーヴィチ (チェロ)
【管楽器】
◆ デルヴォー <ダルティガロング> (ファゴット)
◆ マンツ (クラリネット)
◆ モワネ (オーボエ)
【声楽】
◆ ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル】
◆ グリラー弦楽四重奏団
◆ シェッファー四重奏団
◆ シュナイダー四重奏団
◆ ズスケ四重奏団
◆ パスカル弦楽四重奏団
◆ パスキエ・トリオ
◆ ハリウッド弦楽四重奏団
◆ バルヒェット四重奏団
◆ ブダペスト弦楽四重奏団
◆ フランスの伝説の弦楽四重奏団
◆ レナー弦楽四重奏団
【作曲家】
◆ アンダーソン
◆ ベートーヴェン
◆ ヘンツェ
◆ 坂本龍一
【シリーズ】
◆ テスタメント国内盤
【レーグナー】
◆ マーラー:交響曲第3、6番 (3CD)
◆ ブルックナー:交響曲第4、5、6、7、8、9番 (6CD)
◆ ヨーロッパ作曲家録音集 (5CD)
◆ ドイツ・オーストリア作曲家録音集 (5CD)
【スイトナー】
◆ レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
◆ ドヴォルザーク:交響曲全集 (5CD)
【アーベントロート】
◆ ベートーヴェン:交響曲第1、4、6、9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ(3CD)
◆ シューベルト:未完成、グレート&シューマン:協奏曲集(2CD)
◆ ブルックナー:交響曲第4、5、9番 (3CD)
◆ ブラームス:交響曲第1、3、4番、ハイドン変奏曲 (2CD)
◆ モーツァルト」交響曲第33、35、38、41番、ディヴェルティメント第7番、ノットゥルノ (2CD)
◆ チャイコフスキー:交響曲第4、6番、シューマン:交響曲第4番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (2CD)
◆ ハイドン:交響曲第88、97番、ヘンデル:二重協奏曲、バッハ:管弦楽組曲第3番
【オイストラフ】
◆ ダヴィッド&イーゴリ・オイストラフ・エテルナ録音集 (5CD)
【ズスケ四重奏団】
◆ モーツァルト:弦楽四重奏曲第8番〜第23番 (5CD)
内容詳細
ラトルの後任として首席指揮者となったペトレンコとBPOによるショスタコーヴィチのボックスだ。CO-VID19のパンデミック下で行なわれたライヴで、極めて今日性を帯びた音楽として響き渡る。さまざまな特典も付属。(CDジャーナル データベースより)
ユーザーレビュー
投稿日:2024/04/07 (日)
間違いなく名演である。一方、感心したがさほど感動しなかった。皆さんのコメントからはそう伝わる。一撃必殺の如く感動した演奏に長々としたコメントは意外と少ない。短文で感動を示す一言、良いねの無類の多さが素直に感銘度を表わしている。そう思うが、いかがでしょうか。話は逸れるが、ハイティンクや小澤征爾さんもライブでなく盤に関しては、そんな指揮者だった。ペトレンコさんを温かく見守っていきたい。
おとちゃん さん | 大分県 | 不明
投稿日:2023/10/09 (月)
当方、ショスタコ好き、 ワシリーペトレンコ、井上、コンドラシンなどの 全集を聞いてます。 まず、聞いて思ったのは どの曲も素晴らしくうまい。 楽譜にかかれていることが全て聞こえるようである。 9、10番はベストチョイスかもしれない。 重心重めの9番、 あらゆる場面で緩みのない10番はなかなか 聞けるものではない。 また、音も良い。 コンドラシンやムラヴィンスキーなどは 録音の不鮮明さがこれらの曲の 雰囲気作りに寄与してた部分も あるように感じたが、 鮮明な音で様々な音が聞き取れるのは 従来のショスタコ像を良い意味で 覆してくれる。 一方でペトレンコならではの 奇をてらった解釈はあまり感じなかった。 そもそもそのような指揮者では ないのかもしれない知れない。 問題は価格かもしれない。 ワシリーペトレンコなど廉価で よい演奏を聞ける現在では 映像つきとはいえ、3曲でこの値段を どう捉えるか? 個人的にはあと、5、6、7番あたりも 入っていれば間違いなく星五個なのだが、 それはこちらの貧乏性なのかもしれない。
でぃ さん | 茨城県 | 不明
投稿日:2023/09/10 (日)
「優れた演奏には二種類ある。まず、優れた演奏そのものを感じさせるような演奏。 次に、演奏ではなく、作品だけが感銘を与えるような演奏。これこそが私たちの真の課題である。ーフルトヴェングラー の遺稿より」 ショスタコーヴィチ作品の演奏を評価するのは難しい。作品そのものの評価が確立しているとは言えないからだ。無心に聴けば他に換えられない圧倒的に素晴らしい音楽である事は感じられる。だが、それだけでは不十分で、胸の中にザワザワしたものを残してしまう。まだ大切なものを聴き取らなければならないのではないか。 それが何か?私たち全員が、その答えを知らされてはいない。 演奏を評価しようとするなら、その演奏が曲の本質を捉えているかどうか、が大切になる。聴く者は、まず曲の真価を聴き取らなければならない。 キリル ペトレンコが2枚のCDに収録したのは、Symphony No.8,9,10の三曲。まずここに惹かれる。 ショスタコーヴィチのSymphonyは年代順に二、三曲ずつくくってみると理解しやすくなる。 No.2と3,No.11と12,No.13と14など。さらに深読みすれば、No.4と5,No.5と6という組み合わせも意味がある。 No.7と8もくくりになるが、それにNo.9を加えた三曲は戦争三部作と呼ばれたりもする。 ペトレンコの演奏を聴くと、No.8,9,10のくくりは素晴らしいと思う。 この三曲は、徹頭徹尾、嘘やごまかしのない真実の心情だけを込めたSymphonyである。演奏効果を狙った過剰な表現はなく、時に出現するショスタコーヴィチ特有の、凶暴なまでの暴力的大強音でさえ、ペトレンコの指揮では、心の叫びから一歩も逸脱していない。 No.8は全編が内省的で、No.7では描かれなかった、心情の陰の部分が吐露されている。 ちょうど、No.5のあとにNo.6を創ることが必要だったことと同様に、外面的で、やや効果を狙ったもののあとでは、より内面的に真実に沿った曲を書かなければならなかった。 大きなうつわのSymphonyだが、室内楽を聴いているような気持ちになる。それも、演奏家が目立つデュオやトリオではなく、弦楽四重奏。この感じは、ペトレンコでいっそう強い。 No.9はより複雑な事情の中で作曲された。 No.8は、No.7のソ連当局に対してはもとより、世界中での大成功の後であったから、身の安全はある程度確保したなかでの発表だったと考えられる。 しかし、そのNo.8もしだいに当局より不審な目でみられ始めていた状況で、戦勝を祝う曲を期待されていた。しかも、9番目のSymphonyである。誰もが、(世界中が)ベートーヴェンを意識していた。 諧謔的、皮肉的と評価されることの多い曲だが、ペトレンコで聴くと真面目一本の音楽に聴こえる。 確かに、上記の状況を考えると、ここでふざけた曲など書けるだろうか。 第一楽章のややおどけたような主題から始まる、ハイドン的ソナタ形式。呈示部はきっちり反復される。 展開部における主題の発展はハイドンともベートーヴェンとも違うすばらしい音楽。 第二楽章の憂鬱で、どこか不安な、しかしやり過ぎない自制ある緩徐楽章。 スケルツォの第三楽章も、お得意の音楽で、ここまでは、ショスタコーヴィチの本来の資質が輝いているSymphony No.1に、直接繋がっている。おそらく、ほんとうに好きな音楽を書いている。 問題は第四楽章だ。 仮定だが、この楽章はベートーヴェンの第九、第四楽章冒頭のレチタティーヴォにならったものだとしたら。 ベートーヴェンはそのレチタティーヴォで先行する三つの楽章を否定する。しかし、どうしたらあのすばらしい音楽を、本人と言えども否定できるのか?やむを得ない想いがあったからだ。 先行する三つの楽章は、ベートーヴェンの極めて個人的な、しかも絶対音楽である。それをあえて否定しなければならない事情は当時の政治、社会情勢にあった。自分自身を捨ててでも、世界に平和と自由を訴えたい想いがあったのだ。 あの音楽は、讃歌ではなく、願いであり、希望だ。 ショスタコーヴィチが9番目のSymphonyを作曲するにあたり、周囲の期待とは別に、自身も深く意識していたに違いない。それは作品のなかに現われている。 本来の自分らしい音楽を第四楽章で否定する。 ベートーヴェンの第九の第四楽章主部に相当する第五楽章はどうか? これもまた、ショスタコーヴィチのお得意の目まぐるしい音楽ではあるが、お祭り騒ぎを装って訴える。ベートーヴェンのように壮大に、ではないが、 「私もまた、狂ったように希望する。」 そう言っているように聴こえないだろうか? 猛スピードで音階を駆け巡るメロディがベートーヴェンの歓喜の主題のオマージュに聴こえないだろうか? ソ連当局の期待に応えるような音楽を書くことは、ショスタコーヴィチならできただろう。 しかし、危険な状況に陥いる覚悟であえて、ほんとうに書きたい音楽、伝えたい想いを込めたところにSymphony No.9の凄みがある。これもまた、No.8と姿は違えど同質の音楽といえる。 No.10はショスタコーヴィチのSymphonyのなかでは例外的に評価がほぼ定まっている曲である。 作曲家自身の心情を描いた音楽。 傑作揃いの作品群のなかでも、No.8と並んで代表作のひとつ。 ショスタコーヴィチは、このSymphonyを書き上げたことで、一つの区切りがついたと感じたと思う。 No.9を書いた後、約8年間の不遇を過ごしてようやく自分の思いの丈を作品として発表する事ができた。長い空白があったけど、これは、No.8,No.9と一続きの曲だ。本当の心情を込めたSymphonyというくくりである。 ショスタコーヴィチ作品の演奏では、圧倒的なオーケストラの力を見せつけるような演奏が少なくない。そういう演奏にも、ショスタコーヴィチの曲はよく応えてくれるのは事実だ。 聴く者は、曲の真価を理解するより演奏の凄さに唸ってしまう事になる。それも確かに、音楽を聴くたのしみには違いない。 ここに聴く、キリル ペトレンコ指揮ベルリンpoの演奏は、まっすぐ曲の本質に向かっている。熱狂的に高まる強音響の中でも、どこか平穏なきもちが目覚めている。 演奏者を忘れさせ、曲そのものにこころを誘っている。作曲者、そして作品への深い敬意があるのだろう。 ベルリンpoが、キリルを迎えた理由が分かった気がする。 作品に対する、変わらない気持ちで、これからもショスタコーヴィチをの演奏を続けて欲しい。 そしていつか、是非、フルトヴェングラー の作品の真価を示して欲しいと、切に期待する。 この、ベルリンフィルレーベルのCDには直接関係しないが、 特に書いておきたい事があります。 このhmvの紹介記事のページの作品&演奏情報の欄に、 この三曲の楽曲構成と、このCDに合わせたタイムテーブルが記載されている。担当の方が、実測して記録したものとおもわれます。 曲の構成を知りたい時にとても役に立ちます。担当者の愛情をかんじます。ありがとうございます。
mimia さん | 石川県 | 不明
人物・団体紹介
ショスタコーヴィチ(1906-1975)
「わたしの交響曲は墓碑である」という“証言”の中の言葉によって象徴されるショスタコーヴィチの音楽と生涯への価値観の変質は、今もって盛んな議論と研究、演奏解釈によって再認識過程の最中にあるとも言えますが、作品によってはすでに演奏年数も75年に及び、伝統と新たな解釈の対照がごく自然におこなわれてきているとも言えそうです。 圧政と戦争の象徴でもあったソビエト共産主義社会の中に生き、そして逝ったショスタコ
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