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カラヤン・バイオグラフィ

2007年12月29日 (土)

カラヤンは1908年4月5日、外科医の父エルンストと母マルタの次男として、モーツァルトの故郷オーストリアのザルツブルグに生まれました。生年時の本名はヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン。3歳のときにピアノを習い始め、4歳半で公開演奏をおこなうなど、当時はピアノの神童として騒がれていました。
 7歳でモーツァルテウム音楽院に入学、18歳のときにウィーン工科大学に進みますが、すぐに退学してウィーン音楽アカデミーに移り、本格的にピアノを学び始めますが、指導教授だったホフマンから指揮者への転向を示唆され、指揮科にてアレキサンダー・ヴンデラー教授の指導を受けることになります。
 1929年1月22日、モーツァルテウム管弦楽団を指揮して公式デビュー。この演奏会を聴いたウルム市立劇場の支配人から第一指揮者として迎えられ、3月2日に『フィガロの結婚』でオペラ・デビューを飾り、1935年までオペラ指揮者として契約します。指揮はもちろん、演出や大道具作りにまで参画せざるを得なかったという田舎町ウルムでの経験は、カラヤンの指揮者としての基礎作りに決定的な役割をはたしたと伝えられています。
 1933年、ザルツブルク音楽祭に初出演。パウムガルトナーの助手として、グノー『ファウスト』のバレエ・シーンの音楽を指揮しています。
 1934年、ウルムでの契約を満了、アーヘン市立歌劇場の指揮者募集に応募し、1年間の試験採用となります。
 同年8月、ザルツブルク音楽祭にてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。
 同年9月、『フィデリオ』でアーヘンにデビュー。10月に『ワルキューレ』、12月に『ばらの騎士』とオーケストラ演奏会を成功させ、急速に頭角を現します。
 1935年、27歳でアーヘン市の音楽総監督に就任。ドイツでもっとも若い音楽総監督として注目を集めます。
 1936年、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でベルリン国立歌劇場にデビュー。
 1937年、ブルーノ・ワルターの招きでウィーン国立歌劇場に客演、『トリスタンとイゾルデ』を指揮。
 1938年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。
 同年7月、ソプラノ歌手エルミー・ホルガーレフと結婚。3年で破局。
 同年10月、ベルリン国立歌劇場にて『トリスタンとイゾルデ』を指揮、「奇跡の人カラヤン」と評される空前の成功を収め、ヨーロッパ楽壇の寵子となります。
 同年12月9日、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して初めてのレコーディングをおこないます。曲目は『魔笛』序曲
 1939年、ベルリン国立歌劇場から国家指揮者の称号を受け、国立歌劇場管弦楽団によるオーケストラ演奏会を復活させて活躍、レコーディングもさかんになります。不在がちとなったアーヘンでは不満の声が高まり、2年後に音楽総監督の地位を更迭されます。
 同年4月、ベルリン・フィルと『悲愴』をレコーディング。ベルリン・フィルとの初めての録音でした。
 1940年、アニータ・ギューターマンと再婚。ギューターマンがユダヤ系であったことから物議をかもします。
 1941年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場に復帰、以後カラヤンはオーケストラ演奏会のみを指揮するようになり、翌年にはその回数も年間6回に制限されます。
 1942年、RAIトリノ交響楽団とモーツァルトの交響曲第35,40,41番そのほかをレコーディング
 1943年、コンセルトヘボウ管弦楽団とブラームスの交響曲第1番そのほかをレコーディング、以降、カラヤンは戦後も同オケとのレコーディングはもちろん、客演もおこないませんでした。
 イタリア楽旅中に終戦を迎えたカラヤンは、連合軍当局によりドイツ・オーストリアでの活動を一時禁止されます。
 1946年1月、戦後初の演奏会をウィーン・フィルとおこないますが、3月のコンサートは連合軍により中止、8月のザルツブルク音楽祭出演も禁止されます。英EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグと出合ったのはこの頃で、ウィーン・フィルとの集中的なレコーディングがレッグのプロデュースにより9月から開始され、『ドイツ・レクイエム』ブラームスの交響曲第2番などが録音されます。公的活動禁止中でしたが、「録音は非公開だから別」というレッグ/EMIの理屈が通った形でした。
 1947年、レッグからの申し出でEMIと正式契約、イギリスでデビュー・コンサートを指揮して成功、10月にはドイツ・オーストリアでの活動禁止を解かれます。
 1948年4月、フィルハーモニア管弦楽団と初めてレコーディング。リパッティ独奏によるシューマンのピアノ協奏曲でした。以降、膨大なレコーディングがフィルハーモニア管弦楽団とのコンビでおこなわれます。
 同年には、ウィーン交響楽団の首席指揮者、ウィーン楽友協会の音楽監督に就任。夏にはザルツブルク音楽祭へも復帰します。また、12月28日にはミラノ・スカラ座で『フィガロの結婚』を指揮、その成功で同歌劇場のドイツ・オペラ部門の総監督に任命されます。 1950年、国際バッハ音楽祭における『マタイ受難曲』上演をめぐるトラブルからフルトヴェングラーと対立、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、およびザルツブルク音楽祭等から閉め出され、ウィーンではウィーン交響楽団との活動を中心として、バッハの『ミサ曲ロ短調』や演奏会形式上演によるオペラ『アイーダ』などいまなお語り草の名演をおこないます。また、スカラ座でのポストからイタリアに滞在する機会も多く、RAIミラノ交響楽団RAIローマ交響楽団RAIトリノ交響楽団への客演指揮も目立っています。
 同年9月、『フィガロの結婚』で初のオペラ全曲レコーディング
 1951年、バイロイト音楽祭に初出演、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、『ニーベルンクの指輪』を指揮。
 1952年、バイロイトで『トリスタンとイゾルデ』を指揮。ヴィーラント・ワーグナーの演出に異を唱え、以降の出演を拒否。
 1954年、単身来日してNHK交響楽団を指揮、これがカラヤンの初来日でした。
 1955年、前年の11月に亡くなったフルトヴェングラーの代役としてベルリン・フィルのアメリカ・ツアーに同行、ツアー終盤の4月5日に4代目芸術監督および常任指揮者に任命されます。
 同年7月、初のベートーヴェン:交響曲全集(フィルハーモニア管弦楽団)をウィーンにて録音完了。
 同年8月、ミラノ・スカラ座でマリア・カラス主演による『蝶々夫人』をレコーディング。カラスとのコンビでは、翌年の8月にも『トロヴァトーレ』を録音しています。
 1955年9月、ベルリン市立歌劇場にて『ランメルモールのルチア』をスカラ座との提携で上演、記録的な成功を収めます。
 1956年6月、ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任、10月にはザルツブルク音楽祭の芸術総監督にも就任し、「帝王」とあだ名されるようになります。
 同年12月、レコード史上屈指の名盤と誉れの高い『ばらの騎士』をロンドンでレコーディング。
 1957年、ベルリン・フィルとの音楽監督就任後初のレコーディング・シリーズがおこなわれ、ブルックナーの交響曲第8番シューマンの交響曲第4番その他を録音。
 同年4月、7年振りにウィーン・フィルに復帰、ブルックナーの交響曲第8番を指揮します。
 同年11月、ベルリン・フィルを率いて来日。
 1958年10月、エリエッテ・ムレーと3度目の結婚。
 1959年3月、EMIからDGへ移籍して初のレコーディングとなる『英雄の生涯』を録音。英デッカへのウィーン・フィルとのレコーディングも開始され、ベートーヴェンの交響曲第7番『ツァラトゥストラはかく語りき』『惑星』、オペラでは『アイーダ』『オテロ』など不朽の名盤が次々と生まれます。
 同年10月、ウィーン・フィルと来日。
 1960年7月、ザルツブルク音楽祭40周年を期に建設された祝祭大劇場がオープン、カラヤンはオープニング・プログラムの『ばらの騎士』リ−ザ・デラ・カーザ主演その他のキャストで指揮。
 同年9月、フィルハーモニア管弦楽団とシベリウスの交響曲第5番を録音。これがフィルハーモニア管弦楽団との最後の録音となりました。
 1962年9月、スヴャトスラフ・リヒテルとの共演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をレコーディング。当初ベルリンでおこなわれる予定だったこの録音は、前年にベルリンの壁が築かれたことでリヒテルの西ベルリン入りが不可能となり、急遽ウィーンのムジークフェラインザールでウィーン交響楽団を起用しておこなわれたものです。
 同年11月、2度目のベートーヴェン:交響曲全集(ベルリン・フィル)を録音完了。
 1964年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任。
 1965年、音楽映画フィルム・プロダクション「コスモテル」を設立。第1弾はフランコ・ゼッフィレッリ演出によるオペラ映画『ボエーム』。その後、映画監督アンリ・ジョルジョ・クルーゾーの協力を得て、ベートーヴェン『運命』ドヴォルザーク『新世界より』シューマンの交響曲第4番ヴェルディ:レクイエムなどを制作。
 1967年、ワーグナー・オペラの理想的な上演を掲げて、ザルツブルク・イースター音楽祭を創設、ベルリン・フィルを初めてオーケストラ・ピットに入れて話題を集めます。これに平行して『ニーベルングの指輪』全曲レコーディングを1966年から開始、1970年に完了します。
 1968年、ドヴォルザークのチェロ協奏曲ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ独奏でレコーディング。
 1969年2月、パリ管弦楽団の芸術監督に就任。1971年までの在任中に、フランクの交響曲チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ラヴェルの管弦楽作品集をレコーディング、幻想交響曲をフィルム収録しています。
 1969年9月、ベートーヴェンの三重協奏曲でEMIに復帰。
 1970年9月、モーツァルトの後期交響曲集をレコーディング。続いてブルックナーの交響曲第4番を初レコーディング。
 1970年11月、『ボリス・ゴドゥノフ』でデッカに復帰。
 同年、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して『ニュンベルクのマイスタージンガー』をレコーディング。
 1971年、それまでまったく手掛けていなかったメンデルスゾーンの交響曲全集をレコーディング。戦前からの得意演目『トリスタンとイゾルデ』と、戦後のいわく付き演目だった『マタイ受難曲』がレコーディングされたのもこの年です。
 1972年、これも昔から得意としてきたヴェルディのレクイエムを初レコーディング。また、デッカへの『ボエーム』は、ベルリン・フィルのイタリア・オペラ初録音として話題を呼びました。初の映像版ベートーヴェン交響曲全集が完成したのもこの年です。
 1973年、シェーンベルクの『浄夜』ほかの新ウィーン楽派管弦楽曲集を録音完成、大反響を呼びました。また、大ベストセラー『ツァラトゥストラはかく語りき』の再録音、マーラーの交響曲第5番もこの年のレコーディングです。
 1974年、十八番の『英雄の生涯』を再録音。
 1975年、チャイコフスキーの交響曲第5番モーツァルトのレクイエム『春の祭典』、ラザール・ベルマン独奏によるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番などを次々と録音、3度目のベートーヴェン全集に着手。
 1977年、3度目のベートーヴェン交響曲全集(ベルリン・フィル)が完成。
 同年5月、13年振りにウィーン国立歌劇場に復帰、以降、1981年まで毎年続けておこなわれた『トロヴァトーレ』その他の一連の公演は「カラヤン・フェスティヴァル」と呼ばれました。
 同年7月、ザルツブルク音楽祭にて『サロメ』を指揮、ヒルデガルト・ベーレンスを主役としたこの公演は大成功を収め、公演を挟んでレコーディングされた『サロメ』はベストセラーとなりました。
 1978年、2度目のブラームス交響曲全集、アンネ=ゾフィー・ムターを起用したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集、久々のデッカ録音となった『フィガロの結婚』などを次々と録音、EMIへの『ドン・カルロ』『ペレアスとメリザンド』は特にハイ=グレードな内容が絶賛されました。
 1979年、『アイーダ』を20年振りに再録音、ヤマハに特注したアイーダ・トランペットの響きも話題になりました。同年10月にはベルリン・フィルと来日、ウィーン楽友協会合唱団と豪華ソリスト陣を率いての公演で、ベートーヴェンの交響曲第9番そのほかを演奏。
 同年11月、マーラーの交響曲第9番を初録音、12月からはワーグナーの『パルジファル』初レコーディングに着手。
 1980年、30年振りとなる『魔笛』全曲を録音、5月には、こちらも24年振りの『ファルスタッフ』を完成、当初はフィリップス・レーベルから発売されて話題に。同年7月には、カラヤン初のデジタル録音である『パルジファル』が録音完成。シベリウスの交響曲第2番の20年振りの再録音、『アルプス交響曲』の初録音がおこなわれたのもこの年です。
 1981年、『トゥーランドット』モーツァルトの大ミサ曲『オルガン付き』などを初録音、『惑星』ショスタコーヴィチの交響曲第10番など再録音も盛んにおこなわれます。
 1982年4月30日、ベルリン・フィル創立100周年記念演奏会にて『英雄』その他を指揮。同年夏、ザルツブルク音楽祭の『ファルスタッフ』を指揮。
 同年9月ベルリン芸術週間において、マーラーの交響曲第9番をライヴ・レコーディング。
 同年11月、新たに設立した音楽映像プロダクション「テレモンディアル」にて、2度目となる映像版ベートーヴェン交響曲全集に着手、平行して4度目のベートーヴェン全集をDGにレコーディング開始。
 同年12月、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーのベルリン・フィル入団をカラヤンが強行したとされる「ザビーネ・マイヤー事件」をきっかけに、ベルリン・フィルとの軋轢が表面化、この頃からレコーディング計画が次第にウィーン・フィルへとシフトし始め、『ドイツ・レクイエム』ヴェルディのレクイエムチャイコフスキーの交響曲第4番第5番『悲愴』、さらにドヴォルザークの第8番、第9番『新世界より』ヴィヴァルディの『四季』などが、ウィーン・フィルと収録されます。
 1983年、2度目の『カルメン』が録音完成。同年4月には、ウィーン・フィル名誉指揮者に楽員全員一致の意思による推挙されます(ただし、公表されたのは1988年4月)。
 1984年、ウィーン・フィルを起用した『ばらの騎士』再録音が完成、同年8月のザルツブルク公演も映像収録されます。
 1985年、初録音となる『ドン・ジョヴァンニ』をレコーディング。3度目の『英雄の生涯』が録音されたのは、この年の2月でした。
 同年6月29日、ヴァチカン市国の聖ピエトロ大聖堂でおこなわれたローマ法王主催のミサにウィーン・フィルを率いて参加、モーツァルトの『戴冠ミサ曲』を式次第に従って指揮。「一生に一度、神の御前で指揮をしたい」というカラヤンの希望を、音楽好きで知られたローマ法王ヨハネ・パウロ二世が快諾して実現した、とされています。
 同年12月、4度目のベートーヴェン交響曲全集が、映像版より一足先に録音完了。
 1986年9月、2度目となる映像版ベートーヴェン交響曲全集が完成。
 同年10月、病に倒れ、ベルリン・フィルとのアメリカおよび日本ツアーをキャンセル。
 1987年元旦、『ニューイヤー・コンサート』を初めて指揮。同年5月、ベルリン市750周年記念演奏会にて『ツァラトゥストラはかく語りき』他を指揮。
 同年7月からのザルツブルク音楽祭では『ドン・ジョヴァンニ』を映像収録、ジェシー・ノーマンを独唱に『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」を指揮。
 同年10月、ベルリンのフィルハーモニー室内楽ホール落成記念コンサートで、ヴィヴァルディ『四季』を演奏。
 1988年4月、体調の悪化をおしてベルリン・フィルと最後の来日。10月にベルリン・フィルを指揮してブラームスの交響曲第4番をレコーディング(ベルリン・フィルとの最後のセッション録音)、11月にはウィーン・フィルを指揮してブルックナーの交響曲第8番をレコーディング。
 同年12月31日、ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートを指揮(ベルリンでの最後のコンサート)。
 1989年2月、ウィーン・フィルのニューヨーク公演に同行。
 同年3月、ザルツブルクでベルリン・フィルを指揮、27日のヴェルディ:レクイエムが両者の最後の共演でした。
 同年4月23日、ウィーンのムジークフェラインザールでウィーン・フィルとブルックナーの交響曲第7番を演奏、これが生涯最後の演奏会となりました。
 同年7月16日、ザルツブルク郊外アニフの自宅にて死去。

【カラヤンの芸風】
長大な歴史を持つカラヤンのレコーディングの中でも、交響曲録音はオペラのそれと並んで、もう一方の柱ともいうべき総量と水準の高さを誇るものです。敬愛するトスカニーニがそうであったように、カラヤンがオペラと並んでこのジャンルに情熱を傾けていたことは、残された数々の名盤が物語るところ。カラヤンの飛び抜けた国際的名声は、この交響曲のレコードによって支えられている、と言って過言ではないでしょう。ここでは10枚のディスクを選び、カラヤンの芸風の変遷を交えつつ、年代順にご紹介してゆきます。

 1950年代
 第2次大戦後、敏腕ディレクター、ウォルター・レッグの下で、EMIへの録音が1960年まで続きます。レッグとの出会いは、レコードに対するカラヤンの意識に多大な影響を与えたと言われていますが、ナチ疑惑のため、戦後しばらく演奏会活動を禁じられたカラヤンが、新たに示された『レコーディング』という分野に、以前とは比較にならない意欲をもって関わっていったことは十分考えられます。この時期の演奏は、録音のパートナーだったフィルハーモニア管の高性能を背景とした、機能的かつ明快、颯爽たる表現が特徴。1960年に収録されたシベリウスの2番はその集大成とも言える見事な出来栄えで、清新の息吹みなぎる明朗なサウンドはいまも新鮮です。

 1960年代
ベルリン・フィル音楽監督に就任(55年)、レコード会社もドイツ・グラモフォンへと移り、その盤歴も新たな局面を迎えます。この時期はウィーン、ザルツブルグと活動の場を拡げ、その権勢が絶頂を極めた10年でもあります。 ベルリン・フィルという強力なオケを得て表現が拡大、起承転結の構成を基本とするドラマティックなアプローチも明確になり、メリハリの効いた『聴き映えのする』演奏がこの時期の特徴。中でも、1961年から62年に収録されたベートーヴェン全集は言い落とせません。壮年期カラヤンの豪腕と名門オケのプライドのぶつかり合いがきわめてスリリング、このせめぎ合いを通じて、カラヤンはベルリン・フィルを掌握していったのでしょう。 翌63年のブラームス1番はカラヤンの勝利宣言とも言えるもので、その異様なまでの高揚感、強靭なオケのコントロール、輝かしいサウンドが圧倒的です。

 1970年代
ベルリン・フィルとの共同作業がピークに達した時期。ステレオ録音が完成期を迎えたこともあり、録音済みの作品を次々と再録音してゆきます。
 この時期の演奏は、まさに完璧というほかありません。その細密をきわめた表現は、近代オーケストラ演奏の極致とさえ評されたほどです。1975から77年のチャイコフスキー後期3大交響曲集は代表的傑作。
 1977年の合唱は、理想的な音場を求めて、オケと合唱を別会場でそれぞれ収録するという手法を用いたもので、最新技術を積極的に取り入れるカラヤンの姿勢を象徴する一枚。また、マーラー等この時期には新たな録音レパートリーが登場、中でも1971年のスコットランドは、過剰演出を拒むこの作曲家独自の抒情を巧みにすくい上げ、音色の濃淡と配合に鮮やかな手際をみせた印象深いものです。
 また、世間で賛否両論のカラヤンのブルックナーですが、この時期、同じ4番がわずか5年違いで大幅にアプローチが変更されて録音されているのは注目に値します。1970年にイエス・キリスト教会で収録された旧盤は、ハース版をほぼそのまま用いた演奏でありながら、徹底的に壮麗趣味で飾られた凄まじいアプローチがポイントです。冒頭の改変からして世のブルックナー好きの神経を逆なでし、アンチ・カラヤン・ムードを煽りたてたアルバムとして既に知名の存在ですが、是非や好悪はともかく、ある種独特の強烈かつ壮麗なアウラを放つその内容は、一聴の価値あるものでしょう。最新のリマスター技術“ART”による音質向上も見逃せないところで、ほとんど威圧的ですらある大迫力のトゥッティは、LP時代には再現できていなかったほどのものです。
一方、1975年にフィルハーモニーで収録されたDG盤は、旧盤からわずか5年後というのに、諸先輩に倣ってか(?)第1・4楽章の例の改訂版のアイデアを復活させており、全体のプロポーションも引き締め気味にするなど、作品解釈の方向転換をみせているのが興味深いところです。録音方式・会場の違いによる音響の差も顕著で、ソリッドな感触の新盤は確かに前回やりすぎたカラヤンのみそぎ(?)にはふさわしいものとも思われます。

 1980年代
 デジタル録音と、それに続くCDの登場で、さらなる再録音、再々録音が生み出され、その活動は最晩年に至るまで病をおして続けられます。
 この時期の傑作は、何と言っても1980年のアルプス交響曲。初録音となるこの演奏が、同時に交響曲では初のデジタル録音であることも、いかにもカラヤンらしいところ。
1982年にはマーラー9番をライヴで再録音、これはカラヤン晩年の演奏様式の嚆矢とも言えるきわめて印象深いもの。特に終楽章に顕著な静かな諦念は、79年のスタジオ盤にはなかったものです。
 最晩年にはウィーン・フィルとの録音が増えますが、中でも1984年の88年のブルックナー8番が印象的。晩年のカラヤンをオケが絶妙にフォローした、他に類をみない味わいを持つ名演です。

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